大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

浦和地方裁判所 平成3年(わ)565号 判決 1992年1月14日

主文

被告人を懲役一年六月に処する。

未決勾留日数中一九〇日を右刑に算入する。

押収してある覚せい剤一袋(当庁平成三年押第一二四号の1)及び覚せい剤一包(同押号の2)をいずれも没収する。

平成二年二月一日付起訴状記載の公訴事実につき、被告人は無罪。

理由

理由目次

(罪となるべき事実)

(証拠の標目)

(法令の適用)

(量刑の理由)

(一部無罪の理由)

第一  公訴事実

第二  争点の所在及び公判の審理経過等

第三  覚せい剤自己使用事件の特徴及びこれに対する当裁判所の基本的姿勢

第四  基本的事実関係

第五  捜査上の問題点及び被告人と警察官の各供述の対立点

第六  本件捜査に関する疑問点――警察官らの証言の信用性を疑わせる事情(1)

一  被告人方で尿を採取した際の手続について

二  被告人方で採取した尿の処分方法について

三  朝霞署における採尿手続について

四  所持品(電子手帳)の保管手続等をめぐる一連の疑惑について

五  注射痕の写真について

六  尿の再検査の訴えを無視したことについて

第七  本件捜査をめぐるその余の問題点――警察官らの証言の信用性を疑わせる事情(2)

一  緒節

二  田園調布署の警察官との接触について

三  被告人方に対する捜索の時期について

四  捜査の端緒等について

五  まとめ

第八  尿すり替えの可能性について

一  緒節

二  朝霞署で提出した尿の行方について

三  すり替えるべき尿の存否について

四  動機の存否について

五  尿すり替えの可能性についての結論

第九  自白調書の任意性・信用性について

一  緒節――自白調書等の概要

二  自白調書等の作成の経過について

三  自白調書等の任意性について

四  自白調書等の信用性について

五  S刑事への伝言メモについて

六  被告人の公判供述の矛盾・変遷について

第一〇  総括

第一一  結論

(罪となるべき事実)

被告人は、いずれも法定の除外事由がないのに、

第一  平成三年五月七日ころ、東京都練馬区<番地略>被告人方居室内において、覚せい剤であるフェニルアミノプロパン約0.04グラムを含有する水溶液約0.25立方センチメートルを自己の左腕部に注射し、もって、覚せい剤を使用し

第二  同月一一日、同都豊島区<番地略>所在の警視庁巣鴨警察署内において、覚せい剤である塩酸フェニルメチルアミノプロパンの結晶約0.579グラムを所持したものである。

(証拠の標目)<省略>

(法令の適用)

被告人の判示第一の所為は、覚せい剤取締法四一条の二第一項三号、一九条に、同第二の所為は、同法四一条の二第一項一号、一四条一項にそれぞれ該当するが、以上は刑法四五条前段の併合罪であるから、同法四七条本文、一〇条により、犯情の重い判示第二の罪の刑に法定の加重をした刑期の範囲内で被告人を懲役一年六月に処し、同法二一条により、未決勾留日数中一九〇日を右刑に算入し、押収してある覚せい剤一袋(当庁平成三年押第一二四号の1)及び同じく覚せい剤一包(同押号の2)は、判示第二の罪に係り被告人の所有するものであるから、覚せい剤取締法四一条の六によりこれを没収することとする(なお、本件における未決勾留日数中、平成二年一一月二九日に保釈により釈放される以前のものは、専ら、主文において無罪の言渡しをした平成二年二月一日付起訴状記載の事実に関するもので、判示「罪となるべき事実」の審理に利用されていないから、これを右事実につき言い渡す懲役刑の刑期に算入することはできない。また、本件における訴訟費用は、やはり、主文において無罪の言渡しをした事実につき生じたものであるから、被告人にはこれを負担させることができない。)。

(量刑の理由)

本件は、昭和六三年一〇月に覚せい剤取締法違反罪(不法所持罪及び自己使用罪)により、懲役一年(三年間執行猶予)に処せられた被告人が、その後、覚せい剤自己使用罪を犯したとして逮捕・勾留の上、平成二年二月一日起訴され、同年一一月二九日に保釈により釈放されるまで一〇か月以上も身柄を拘束されたのち、未だ前刑の執行猶予期間中で保釈中の身でもある平成三年五月に、覚せい剤水溶液の自己使用及びその結晶約0.579グラムの不法所持罪を敢行したという事案であって、裁判所の信頼を裏切ること著しいものであるばかりでなく、被告人が、前刑の執行猶予の判決を受けたのちにも、いずれも起訴を免れたとはいえ、覚せい剤粉末の微量所持や、同じく粉末の共同所持の嫌疑を受けて、相当期間身柄を拘束された経緯すらあり、覚せい剤関係者との接触の危険性を身にしみて実感した筈であることをも考えると、被告人の覚せい剤との親和性及び規範意識の欠如は到底これを軽視し難いといわなければならない。従って、後記のとおり、平成二年二月一日付け起訴状記載の公訴事実について、被告人に対しては結局無罪の言渡しをすべきものと認められること、現在の時点においては、前刑の執行猶予期間は満了しており、本件につき、刑の執行猶予言渡しの法律上の障害は存在しないこと、その他の情状を考慮に容れても、本件につき刑の執行を猶予するのが相当であるとは認められない。

確かに、本件については、被告人が、公訴事実を全面的に認めて反省の情を表していること、今回の覚せい剤入手は、被告人が積極的に希望してこれを行ったものではないこと、被告人は、小学校四年生の長男と、六七歳の老母を抱える身であるが、老母は、平成三年二月に心筋梗塞で入院したことがあって、健康状態が優れず、被告人が長期の実刑に服することになると、長男や老母ら家族の生活に支障を生ずることが予想されることなど、被告人のため斟酌すべき情状も存するのであり、これらの情状は、その刑期を定めるにあたっては相当程度考慮に容れる必要があるが、前記の事情に右の情状を併せ考察しても、本件につき、被告人に対し主文の懲役刑の実刑を科することは、まことにやむを得ないところと考えられる。

(一部無罪の理由)

第一  公訴事実

平成二年二月一日付起訴状記載の公訴事実は、「被告人は、法定の除外事由がないのに、平成二年一月一一日ころ、東京都内およびその周辺において、覚せい剤であるフェニルメチルアミノプロパンを含有する水溶液若干量を自己の右腕部に注射し、もって、覚せい剤を使用したものである。」というのである。

第二  争点の所在及び公判の審理経過等

1  被告人は、右公訴事実につき、公判の冒頭から強く犯行を否認し、「平成二年一月一一日未明、都内池袋付近の公園で覚せい剤の売人と接触し、同人から受け取った注射器で自己の右腕に覚せい剤水溶液を注射する真似をしたことがあるが、それは、かねて接触のあった警察官からの助言もあって、覚せい剤の売人の情報を入手しようとする目的によるのであり、注射は絶対にしていない。私が、警察(埼玉県警察朝霞署)で任意提出した尿は、容器への封印前に、一〇分から一五分位、警察官が私の目の届かない所へ持ち出していたことがあったので、その間に、他人の尿とすり替えるなど何らかの工作をされたのではないか。」という特異な弁解をし、弁護人も、右被告人の弁解を前提として、鑑定資料たる尿と被告人の尿の同一性を争うなど、積極的な反証活動を展開してきた。

2  覚せい剤自己使用事件の有罪立証は、ほぼ全面的に、被告人(被疑者)の尿中から覚せい剤が検出されたとする鑑定書に依存することになるが、右鑑定書は、鑑定の対象物が被告人(被疑者)の尿であるという前提が揺るがない場合に限って、強力な証拠価値を発揮するものである。逆にいえば、鑑定の対象物たる尿から覚せい剤が検出されたという鑑定が、その手法・技法に照らして正確であることがいくら立証されたとしても、被告人(被疑者)の尿と鑑定の対象物たる尿の同一性に関する疑問を払拭出来ない場合には、右鑑定書の証拠価値は大幅に低下し、これによっては、公訴事実について、合理的な疑いを越えた立証ができないことになる。従って、本件における最大の争点は、結局において、鑑定の対象物たる尿と被告人の尿が同一であり、その間に、被告人の言うような尿のすり替えや異物の混入等の違法な行為が介在した疑いがないかどうかという点に帰着する。

3 現職の警察官が、被疑者から提出を受けた尿に不正な工作を施すというような事態は、正常な捜査の遂行過程においては考えられないことであるから、被告人らの右主張は、一見すると、明らかに荒唐無稽の主張であるようにも感ぜられる。しかし、遺憾ながら、現実の問題としては、捜査の過程において、捜査官が証拠に不正な作為を施した疑いがあると指摘された事例は、決して少なくはないのである(公刊物に登載されたものとしては、例えば、最大判昭和三四・八・一〇刑集一三巻九号一四一九頁、最一判昭和四八・一二・一三判例時報七二五号一〇四頁、最一判昭和五七・一・二八刑集三六巻一号六七頁、仙台高判昭和五二・二・一五判例時報八四九号四九頁、大阪高判昭和六二・六・五判例タイムズ六五四号二六五頁、豊島簡判平成元・七・一四判例タイムズ七一一号二八一頁、浦和地判平成三・三・二五判例タイムズ七六〇号二六一頁などがあるが、当裁判所がつい最近言い渡した覚せい剤取締法違反事件の中にも、警察官により他人の尿を混入された疑いが払拭できないとされた事例がある。浦和地裁平成三年(わ)第一三六号覚せい剤取締法違反事件、平成三・一二・一〇判決参照)。従って、被告人が右のような弁解をした場合、その内容が社会の常識に反するということから、直ちにこれを荒唐無稽の理由のない弁解であるとして一蹴し、これと対立する警察官の証言だけを全面的に信用して事実を認定していくのは、正しい採証の態度ではないというべきであり、被告人の提起した証拠上の疑問点については、徹底的に事実関係を解明する努力をした上で、警察官の証言により、問題とされた疑問点につき合理的な説明が可能となったか否かという観点から、慎重な検討をする必要があると考えられる。

4  当裁判所は、右のような基本的立場に立脚して、本件についても、被告人が主張するような違法捜査が行われた疑いの有無に関し、事実関係を明らかにする必要があると考え、弁護人主張の疑問点につき、多数回の公判を重ね、多くの証人尋問と被告人質問を行ったほか、再三にわたり、必要な事項につき検察官に釈明を命じ、証拠の開示を勧告し、更には、公判廷における検証や、埼玉県警察本部刑事部科学捜査研究所(以下、「科捜研」という。)に対する度重なる照会や提出命令など、考えられるあらゆる手段を駆使して、真相の解明に務めてきた。

5  ところが、当裁判所が右事件の真相究明に鋭意努力し、審理も終盤に近づいていた平成三年五月一一日、当時保釈中であった被告人は、東京都内において、突然、別件の覚せい剤事犯(判示第一、第二の各事実)の容疑で逮捕・勾留の上、東京地方裁判所に起訴されてしまったのである。しかも、右事件については、被告人が捜査段階以来一貫して事実を全面的に認めていたため、被告人・弁護人は、右事件につき当初本件との併合審判を希望せず、同年七月一七日に行われた同地方裁判所における第一回公判においては、被告人・弁護人が公訴事実を認めた上、検察官請求証拠の取調べに全て同意して、その取調べも完了していた。しかし、その後、被告人・弁護人は、当初の方針を変更して、右事件と本件との併合審判を希望するに至り、検察官も同様の意見を述べたため、当裁判所は、東京地方裁判所と協議の上、右別件を本件と併合審判することとした。

6  このように、公訴事実を完全に否認していた被告人が、その後保釈中に同種事件(以下、「別件」という。)の再犯を犯し、被告人がこれを認めている場合に、右別件を従前の事件(以下、「本件」という。)と併合審判することとなると、事実上の問題として、右別件の存在が本件に関する心証形成に影響を及ぼすことが考えられる。このような場合、保釈中に同種事犯を犯すような被告人は、覚せい剤に対する親和性が高いことを身をもって実証しているようなものであるから、本件についてもこれを犯したのが真相であり、被告人の否認供述は、不当に罪を免れるための「ためにする弁解」ではないかという疑いを招き易いのであり、このような疑いの目をもって証拠をみると、二様に解釈する余地のある証拠を、特段の理由もなく被告人に不利に解釈・評価するという傾向を生み易い。

7  しかし、被告人が保釈中に同種再犯を犯したという事実は、本来、それとは全く別の機会に犯したとされている本件について、その有罪立証を補強するものではあり得ない筈である。当裁判所は、本件に関する心証形成上、右の点にはとりわけ慎重な考慮を払い、被告人が保釈中に同種再犯を犯したという事実に不当に眩惑されないよう自省自戒することに務めた。

第三  覚せい剤自己使用事件の特徴及びこれに対する当裁判所の基本的姿勢

1 一般に、覚せい剤取締法違反事件、特にその自己使用事件は、目撃者がいないことが多く、通常その捜査が極めて困難であるとされている。確かに、そのような側面があることは、事実であろう。しかし、判例は、覚せい剤事犯の捜査上の困難に配慮して、訴追側の負担を相当大幅に緩和するに至っている。すなわち、判例によれば、捜査官は、被疑者が尿の提出を拒否した場合で一定の要件があるときには、医師の手による強制採尿という最終的手段を認め(最一決昭和五五・一〇・二三刑集三四巻五号三〇〇頁。なお、右判旨は、最近、被疑者が尿提出を拒否している場合だけでなく、錯乱状態に陥り任意の尿の提出が期待できない場合に拡大された。最二決平成三・七・一六判例時報一三九六号一五七頁)、また、起訴状における使用の日時・場所・方法の特定についても、尿の鑑定書から推認し得る合理的な範囲内でのゆるやかなもので足りることとし(最一決昭和五六・四・二五刑集三五巻三号一一六頁)、更に、近時は、身柄不拘束の被疑者を強制採尿令状に基づき、令状記載の場所へ強制的に連行することすら適法であるとされるに至っている(東京高判平成三・三・一二判例時報一三八五号一二九頁)。

2 このような判例理論のもとにおいては、覚せい剤自己使用事件に関する捜査機関の負担は著しく軽減され、その捜査は、むしろ、他の一般事件と比べても容易な部類に属するとすらいえる。なぜなら、捜査機関から覚せい剤自己使用の嫌疑をかけられて尿の提出を求められた者の大部分は、これを拒否すれば強制採尿という屈辱的な処分を余儀なくされることを怖れて、結局は、その任意提出に応ずることとなろうし、あくまで任意提出を拒否するごく少数の被疑者については、捜査機関としては、多くの場合、これを採尿場所へ強制的に連行した上、医師の手により強制採尿を行わせることによって、その尿を採取することが可能である。そして、訴追機関は、かくして採取された尿から覚せい剤が検出されたとの鑑定結果が得られる限り、右鑑定書以外に何らの証拠がない場合でも、これを唯一の証拠として公訴を提起することができるのであり、このようにして起訴された被告人が公訴事実を争っても、その反証の手段は著しく限定される。逆にいえば、捜査機関としては、いかに被疑者が自己使用の事実を否認したとしても、また、自白や目撃供述等他の一般事件の捜査において通常収集される証拠の収集に成功しなくても、採尿の手続を適正に行い、その証拠保全に遺漏なきを期しておきさえすれば、その公判段階において、有罪立証が崩れる心配はないのであるから、ある意味では、これ程捜査が容易な犯罪は、他に類例がないとすらいえるであろう。

3 ところが、それにもかかわらず、覚せい剤自己使用事犯をめぐっては、実務上争いを生ずることが多い。その理由が奈辺にあるかを考えてみるのに、右のとおり、尿鑑定書というほぼ絶対的ともいえる強力な証拠を突きつけられた犯人が、何とかして罪を免れたいと考えて、採尿手続等に不当に難癖をつけて争っている場合も、ないとはいえないであろう。しかし、他方、犯罪捜査も人間の手によって行われるものであり、そこに、捜査官の違法・不当な行為が介在し得るものであることを示す多くの先例(前記第二3参照)も存在するのである。従って、右のような争いを生じた場合には、対立する供述に虚心に耳を傾け、いずれの供述が納得し得るものであるかを、健全な常識に照らして判断すべきであるが、前記のとおり、覚せい剤自己使用事件に関する捜査の中心は被疑者からの採尿手続であり、有罪立証中に占める尿鑑定書の比重が著しく大きいこと、右採尿手続は、通常、被疑者と警察官以外の第三者のいない密室内で行われるので、被疑者側がその適法性を争うのは容易ではないのに対し、警察官がその状況を写真やビデオに撮影しておくなど、客観的な証拠を保全しておくことは容易であること、従って、訴追側が、右手続の適法性を客観的証拠により立証することは、本来極めて容易な筈であることなどの諸点に照らすと、採尿手続に関して生じた疑問を不当に軽視することは許されないというべきであり、この点に関する検察官の立証には、厳密なものが要求されて然るべきである。

4 当裁判所は、以上のような問題意識のもとに、被告人の提起した証拠上の問題点につき、前記のとおり慎重に審理を尽くし、種種の観点から多角的に検討した結果、以下のように判断した。すなわち、被告人が捜査の初期の段階からほぼ一貫して指摘する警察官の違法行為の疑いについては、これを否定する警察官らの証言中に常識上容易に納得し難い不合理な点を多数指摘することができるばかりでなく、極めて、特異な本件の捜査経過等諸般の事情を総合すると、右警察官らの証言は、本件捜査手続に関し、尿のすり替え等被告人が問題とする捜査官の違法・不当な行為が介在しなかったとの確たる心証を形成させるに足りる証拠価値を有するものではない。他方、本件においては、逮捕当日に作成された極めて簡単な自白調書及び弁解録取書、更には、被告人作成の伝言メモ等も存在するが、その一部は、任意性に疑いがある上、その内容及び作成経過に照らすと、任意性に疑いのないものも含め、その証拠価値は高くなく、前記尿鑑定書やその余の証拠と併せても、本件公訴事実につき、合理的な疑いを越えた立証があったとは到底認められない。以上のとおりである。以下、問題の重要性にかんがみ、その理由をできる限り詳細に説明することとする。

第四  基本的事実関係

次の事実は、証拠上極めて明らかなところであり、被告人もこれを争っていない。

1  被告人は、昭和五九年に前夫(I)と離婚したのち、同人との間の子供である長男Jを出産し、右J及び実母Kとともに肩書住居に居住しつつ、昭和六一年以来、実母が設立した株式会社○○(以下、「○○」という。)の取締役をしていたが、平成元年三月に右取締役を辞任し、その後は、同社の残務整理などをしていた者である。

2  被告人は、○○の取締役をしていた昭和六三年九月ころ、警視庁田園調布警察署(以下、「田園調布署」という。)に覚せい剤取締法違反罪の容疑で逮捕され、同年一〇月二八日、東京地方裁判所において、同罪(不法所持罪及び自己使用罪)により、懲役一年(三年間執行猶予)に処せられたが、その後、翌平成元年一一月二日、同じく田園調布署により自宅の捜索を受け、その際、右自宅からは、紙袋に付着した微量の覚せい剤が発見された。しかし、被告人は、その時点における尿の覚せい剤反応が陰性であったため、とりえずそれ以上の追及を受けなかった。

3  同年一二月一六日、被告人は、都内池袋のビジネスホテルで、覚せい剤の常用者であるLと所用で会見した際に、田園調布署の警察官に踏み込まれ、同人とともに、覚せい剤共同所持の容疑で逮捕・勾留の上取調べを受けたが、被告人及び、Lの各供述が、当時室内にあった覚せい剤はLの物で、被告人はその所持に関知しないという点で一致したため、右所持の点につき訴追を免れるとともに、前件の微量所持の点についても不起訴処分を受け、同月二七日身柄を釈放された。

4  ところが、その後間もない平成二年一月一一日夕刻、被告人は、またも覚せい剤取締法違反罪の容疑で、今度は、埼玉県警察朝霞警察署(以下、「朝霞署」という。)に身柄を連行され、問題の尿検査を受けることになった。

5  すなわち、当時、埼玉県警察本部(以下、「本部」という。)保安課から朝霞署に派遣されていた警察官Q(以下、「Q」又は「Q刑事」という。)以下五名の警察官(Q刑事のほか、朝霞署防犯課係長M警部補、同署防犯課第二係N巡査部長、本部防犯部保安課係長O警部補、朝霞署防犯課第二係主任P巡査部長の五名。以下、特段の必要がない限り、例えば、「M刑事」又は「M」などと姓のみで特定する。)は、同日午後七時二〇分ころ、被告人方に対する捜索差押令状を携えて被告人方に赴き、実母を心配させまいと考えた被告人に招じ入れられて、二階の被告人居室に上がり、直ちに捜索を行ったが、目的物を発見することができなかった。

6  しかし、Q刑事らは、被告人に対し、更に尿の提出を求め、婦人警察官(以下、「婦警」という。)の立会いがないことから当初渋った被告人も結局これに応じたため、警察車両から採尿容器を持参して被告人に渡し、被告人は、自宅二階の便所内で、立会人のないまま右容器に採尿してQらに渡した。なお、Qらは、右採尿にあたり、任意採尿に必要な書類(任意提出書、領置調書、所有権放棄書等)を一切作成していない。

7  ところが、Qらは、右容器内の液体の色が薄く温度も低いとして異物(水)の混入を疑い、被告人に対し、署へ同行して婦警立会いのもとに採尿して欲しい旨求め、被告人も、結局これに応じて、そのまま朝霞署へ同行した(なお、Qらは、被告人から自宅で提出を受けた尿については、「自宅で予試験することもなく、封印もしないまま署へ持ち帰った上、別室で予試験をしたところ陽性反応を呈した。」としているが、その間の手続は全く記録化されていない。)。

8  同日午後九時前後ころ、朝霞署に着いたQらは、同署補導室において、被告人に対し改めて尿の提出を求め、これに応じた被告人は、同署便所内において、与えられた採尿容器を水洗いした上、同日午後九時半ころ、R婦警立会いのもとに、右容器に尿を採取して提出した。

9  その後、警察官らは、右採尿容器に封印・指印をさせないままの状態で、これを便所の外へ搬出し(その際、被告人が自ら容器を所持して搬出したのか<警察官らの証言>、被告人から提出された容器を警察官らが先に搬出したのか<被告人の供述>については争いがある。)、間もなく補導室に戻った被告人の面前で、右採尿容器と同種の容器(これが被告人の提出した尿の入ったものであったか否かについては争いがある。)の中から尿を紙コップに取り分け、予試験をしたところ、陽性反応を呈したため、同日午後九時五二分ころ、被告人を覚せい剤自己使用の容疑で緊急逮捕した。

10  右予試験後、被告人が補導室で封印・指印した採尿容器は、翌一月一二日付で科捜研に鑑定嘱託され、その結果、右尿から「覚せい剤フェニルメチルアミノプロパンが検出された。」旨の同月二四日付の鑑定書が提出された(なお、右鑑定を受託した科捜研技術吏員関根均によると、右尿中のフェニルメチルアミノプロパンは、体内代謝物としての特徴を示すとされている。)。

11  なお、一月一一日に被告人が朝霞署へ出頭したのち、翌一二日午前一時四〇分ころ同署の留置場に留置されるまでのいずれかの時点において、同署の警察官は、被告人から、被告人が自宅から携行した電子手帳を預かり(その際、任意提出書や領置調書が作成されていないことは明らかであるが、警察官が被告人に無断で保管したのか<被告人の供述>、被告人の了解を得て保管したのか<警察官らの証言>については、争いがある。)、同月一七日までその保管を継続したのち、同日その中から覚せい剤の包みを発見したとして、被告人にこれを示し、その任意提出を求めたけれども、被告人が自己の物ではない、指紋の検査をして欲しい旨主張したため、これを差し押えた。しかし、右紙包みからは被告人の指紋は検出されず、右の不法所持の件について、被告人は、起訴されるに至っていない(第一四回公判における検察官の釈明によると、右覚せい剤は、所有者不明による掲示公告ののち、廃棄処分に付されたとされている。)。

第五  捜査上の問題点及び被告人と警察官の各供述の対立点

1  右に認定したとおり、本件においては、被告人が朝霞署便所内で自ら水洗いした容器に尿を採取し、これを警察官に提出したこと、警察官らは、その後間もなく、取調室(補導室)において、被告人に、採尿容器の封印・指印をさせ、しかるのち科捜研に対し右尿の鑑定を嘱託したこと、科捜研の鑑定の結果によれば、右尿からは覚せい剤反応が得られ、しかも、右は、体内代謝物である特徴を示しているとされていることなどの事実が明らかである。そして、被告人が容器に封印・指印したのちの時点において、鑑定の対象物が他人の尿とすり替わったり、これに他人の尿等異物が混入されるおそれがあるとは考えられないから、もし、本件の捜査に不正が介在する余地があるとすれば、それは、被告人が容器に尿を採取して提出したのち、これに封印・指印するまでの間であると考えられる。

2  ところで、右の点については、被告人の供述と警察官の証言が、前記のとおり、顕著な対立を示している。すなわち、警察官(Q、Mら)は、一致して、「尿を採取した採尿容器は、蓋をしただけの状態で被告人が手に持ち、取調室である補導室に運んで机の上に置いた。補導室の机の上で、予試験用に若干量紙コップに移したあと、被告人に、採尿容器の封印をさせ署名・指印もさせたもので、被告人も素直にこれに応じた。その間、採尿容器が被告人の面前から消えたことは一度もない。」と明確に証言するのに対し、被告人は、「自分は、便所内で採尿容器の中蓋を閉め、上蓋を乗せた状態でこれをQに渡したあと、洗面所で手を洗い、立会いのR婦警と一緒に取調室(補導室)に戻った。容器を受け取ったQは、自分より先に便所を出たが、自分が取調室に戻った時は同室内に居らず、一五分か二〇分ののち、容器を持って入ってきた。その後、直ちに行った予試験の結果陽性であると言われ、納得いかなかったが、言われるままに封印・指印してしまった。」旨供述し、容器が一時自己の視界から消えた時期があったことを強調している。そして、被告人の右供述は、公判廷で突如されたのではなく、採尿の翌日(一月一二日)の弁護人との接見の際既にされたものとされており、また、採尿の二日後(一三日)及び九日後(二〇日)に行われた検察官の各取調べの際に、繰り返しされていることが、右各日付の検察官調書の記載上明らかである。

3  本件における最大の争点は、右の点に関する矛盾・対立する各供述のいずれが信用し得るかにある。すなわち、この点に関するQ=M証言が信用し得るものとすると、捜査官側が、被告人の尿に作為を施す余地はあり得ないことになるのに対し、被告人の供述を前提とすると、警察官が何故にそのような異例の措置をとったかが疑問となり、ひいては、尿に対する不正な作為の疑惑の可能性も、容易に否定し難くなる。

4  そこで、右両供述の信用性の検討が必要になるわけであるが、Q=M証言は、相互に符合する上、両名が証言する状況は、覚せい剤自己使用事件の捜査の通常の方法とそれ程大きく異なるものではないと思われ、右の状況のみに限ってみれば、右証言自体の中に不自然・不合理な点が多いわけではない。また、右証言は、立会いのR婦警の証言によっても、結論的に支持されており、常識的に考える限り、右一致した三名の証言の信用性を疑うべき事由は見当らない。しかし、他方、この点に関する被告人の供述も甚だ特異で具体的なものである上、被告人が、逮捕の翌日という捜査の初期の段階から、明確に、かつ、一貫して同旨の弁解を繰り返していることや、一月一三日の検察官による取調べの際、被告人から、「採尿後容器が一時視界から消えた」ことについて同意を求められたR婦警が、これを肯定する趣旨にもとれる発言をした可能性があることを認めていることなどの諸点にかんがみ、直ちにこれを、被告人が、前刑の執行猶予の取消しを免れるための苦肉の策として、虚構の弁解をしているものであるなどと一蹴し去るのは躊躇される。

5  従って、右両供述の信用性は、本件捜査全般の状況や、これをめぐる警察官及び被告人の供述の問題点を多角的に検討した上で慎重に決せられなければならない。

第六  本件捜査に関する疑問点――警察官らの証言の信用性を疑わせる事情(1)

本件においては、検察官も論告において一部認めているとおり、捜査の過程で、少なくとも甚だ杜撰で不明朗な措置がとられた事実が明らかであり、これらの事実は、警察官らの前記各証言の信用性を低下させる事情として働くものというべきであろう。以下、その主要なものを順次列挙した上で、その内容を検討する。

一  被告人方で尿を採取した際の手続について

1  まず、Qらが、当初被告人方居宅で被告人に尿の提出を求めた際、採尿手続を明確にするための書類(任意提出書、領置調書、所有権放棄書)を全く作成しておらず、被告人の自宅ではその予試験すらしていないことが問題となる。

2  Qらが、その供述するとおり、被告人の挙動から覚せい剤自己使用の嫌疑を抱き、その尿から覚せい剤反応が得られる蓋然性があると考えて被告人に尿の提出を求めたのであれば、右尿及びその鑑定書を証拠として提出する際に当然必要とされる手続書類を一切作成しなかったことや、採尿現場における予試験という、覚せい剤自己使用事件の捜査としては通常当然される筈の捜査すらしていなかったということは、いささか理解し難いことであり、右事実は、Qらは、当初から自宅で採取した尿を証拠化するつもりはなく、単に、被告人を署へ同行させるための口実を作出する目的で、自宅での採尿をしたのではないかという弁護人主張の疑問に根拠を与えるものといえよう。

3 これに対し、Qは、被告人が尿に異物(水)を混ぜたと思われたので証拠化するつもりがなかったと供述するが、そのように考えた根拠については「そのようなマニュアルがある」からであるとしていた(記録五八丁)。しかし、その後、朝霞署の防犯課係長で本件捜査の実質上の責任者であるM刑事は、そのようなマニュアルはない旨明言しているので(同四一七丁)、両警察官の証言の間には、明白な抵触があり、いずれにしても、右尿を証拠化するための努力を全くしなかった理由について、警察官らは、納得すべき理由の説明ができないでいる。

4 予試験の点についても、Qは、もともと、捜索の現場で被告人から採尿することを予定し、予試験の道具をも携行していたというのであるから(記録三九丁)、同人が、自宅で提出を受けた尿につき現場で予試験をしなかった理由は、理解しにくい。同人は、被告人が尿に異物を混入したと思ったからという点を右の理由として挙げるが、異物といっても、混入の疑いのあるものは水道水以外には考えられなかったのであって、もし、右尿についてひとまず予試験をした結果、陽性反応が得られた場合には、被告人を緊急逮捕することすら可能となるのであるから、被告人に対し本当に覚せい剤自己使用の疑いを抱いていた警察官であれば、念のため、自宅で直ちに右尿の予試験をするというのが、常識上当然の行動のように思われる。

5 また、Qは、検察官の誘導に基づき、「警察で尿を提出することを被告人が承諾したから」ということを、自宅で予試験しなかった理由の一つとして挙げているが(記録五六丁)、警察官としては、いち早く予試験の結果を知りたい筈であり、もし水を混ぜた尿すら予試験で陽性反応を呈すれば、直ちに被告人を緊急逮捕することも可能になるわけであるから、右の理由は、いっそう説得的でない。

6 従って、自宅で提出を受けた尿に関する警察官の現場での対応及びその理由に関する同人らの証言は、常識上にわかに理解し難いものというべきである

二  被告人方で採取した尿の処分方法について

1  Q=M証言は、一方において、被告人方居宅で採取した尿を証拠化するつもりはなかったので、何らの法的手続をしなかったとしながら、他方において、封印もしないままこれを署に持ち帰って、別室で予試験をしたところ、陽性反応を呈した、ただし、その結果は、被告人に告知していないとしている(記録二七丁、三八四丁裏、四四九丁)。

2  しかし、同人らが、そもそも証拠化する予定がないとして自宅では予試験すらしなかった尿を、わざわざ署に持ち帰ったということ自体が不自然であるし、逆に、一旦署に持ち帰るや、一転して予試験を行ったということ(それも、通常は、被疑者の面前で行ってその結果を自白追及の手段とする予試験を、わざわざ別室で行ったということ)、更には、被告人が自己使用の事実を否認しているのに、折角陽性反応を確認したという右予試験の結果を被告人に告げてもいないということは、まことに不自然なことというほかはない。

3 Mは、署に持ち帰った尿の予試験をしたのは、単に、「興味本位」からである旨証言しているが(記録四四九丁)、被疑者が犯行を否認している覚せい剤事件の捜査の最中に、当該捜査の衝に当たる警察官が、単なる「興味本位」で、わざわざ別室で、試薬を混合し注射器を使用して尿の予試験をするというのは、にわかに信じ難い話であるし、折角予試験を行って陽性反応を得たというのに、これを被告人に告げて自白を迫るという、通常の覚せい剤事件で当然とられる捜査方法をとらなかった点について、Mは、遂に理由の説明をすることができず、自己の捜査方法が正しくなかったことを認めるに至っている(記録四五〇丁)。

三  朝霞署における採尿手続について

1  朝霞署便所内で行った採尿の際、Qらが、被告人に便所内で採尿容器への封印・指印をさせることなく、単に容器に蓋をさせただけの状態で、取調室へ移動したことは、Qらも認めるところである。

2  覚せい剤自己使用事件の有罪立証は、ほぼ全面的に尿の鑑定書に依存するのであり、採尿手続が適切に行われることは、右鑑定書の信用性、ひいてはその証拠能力に重大な影響を及ぼすものであるから、捜査官としては、右手続の過程に万一の疑いを持たれることがないよう、万全の措置をとる必要があるのであって、現に、覚せい剤自己使用事件(少なくとも、被疑者が否認している自己使用事件)の捜査において、注意深い捜査官は、便所内で被疑者から尿の提出を受けるや、被疑者の面前で予試験用の分を取り分け、直ちにその場で、残りの尿の入った容器の封印とこれへの署名・指印を被疑者自身にさせることにより、尿のすり替えや異物混入の疑いを抱かせないよう配慮している。しかるに、本件において、Qらは、被疑者(被告人)が自己使用の事実を強く否認しているにもかかわらず、便所内で被告人に容器の封印や署名・指印をさせることなく、ただ中蓋と上蓋をしただけの状態で補導室までこれを移動させたことを認めているのである。Qらが、採尿容器に封印・指印させないま便所外に搬出させた理由は、封印・指印前に右容器から予試験用の尿を取り分ける必要があったということ以外には考えられない筈であるが、右の程度のことであれば、便所内において、被告人の目の前で行って、引き続き容器に封印させてしまうことが優に可能であるわけであるから、Qらが、何故に便所内における右のような一挙手一投足の労を惜しみ、封印・指印しないままの容器を便所外に搬出したのかという疑問を生ずるのは当然であり、右はいずれにしても、誤解や疑惑を招く余地のある甚だ適正を欠く方法であったといわなければならない。

3 封印・指印されないまま、便所外へ運び出された問題の採尿容器が、誰の手によって運搬され、また、それが一時被告人の視界から消えた時期があったのか否かについては、前記のとおり、被告人とQら警察官の供述が根本的に対立しているのであるが、右のような紛争を誘発した最大の原因は、Qらが、被告人に採尿容器への封印・指印をさせないままこれを便所外へ搬出した(又は、搬出させた)点にあるのであるから、この点に関する捜査上の問題点は、警察官の証言の信用性の判断上、これ無視することができない。

四  所持品(電子手帳)の保管等をめぐる一連の疑惑について

1  本件においては、前記第四11記載のとおり、朝霞署の警察官が、逮捕当日、又は遅くとも翌日未明、被告人が同署留置場に留置されるまでの間に、被告人の所持品(電子手帳)を預かったことなどが明らかであるが、右電子手帳の保管等をめぐる警察官の手続は、著しく不明朗・不透明であって、この点に関する疑惑は、採尿手続に関する警察官らの証言の信用性に重大な疑問を提起するものというべきである。

2  まず、右電子手帳の保管にあたっては、被疑者から証拠物の提出を受けた際、当然に作成すべきものとされている任意提出書や領置調書が作成されていないことが明らかであるが、そもそも、右電子手帳の保管自体が、被告人の了解を得ることなく無断で行われたものと認められる。もっとも、右事実上の領置をしたP刑事は、「M刑事から電子手帳を領置するよう言われ、一月一二日午前一時三五分ころ、机の上にあった電子手帳を被告人の承諾を得て預かった。任意提出書を出させなければならないことを考えたが、時刻が遅く、入房を急いだため、忘れてしまった。」旨証言し(記録六〇五丁以下)、また、M刑事は、「任提とっていませんでしたので、これは私のミス」である旨、書面不作成の点は単なる手続上の過誤にすぎない旨強調するが(同四六八丁裏)、捜査のプロである複数の警察官が、被疑者の所持品を預かる際に、任意提出書を提出させるというような基本的な事項、すなわち、捜査のイロハとでもいうべき事項を、揃いも揃って失念してしまうというような事態は、にわかに想定し難いというべきである。右の点につき、被告人は、「入房時に所持品検査を受けたが、入房した時点では、電子手帳はなくなっていた。一月一一日の取調べ中、警察官から、これを預かると言われたことはない。」旨供述しているところ(同二七〇丁以下)、前記P=M証言によっては、被告人の右供述を排斥することができないというべきである。

3  次に、警察官が、右電子手帳の中から覚せい剤の紙包みを発見したという経緯が奇妙である。すなわち、右覚せい剤の第一発見者とされるP刑事は、「一月一二日午前一時三五分ころ、M刑事に言われて、被告人から電子手帳を預かったのち、四時半ころ、三階の防犯特捜室の鍵のかかる金庫にしまい(なお、その鍵をM刑事の机にしまった。)、仮眠して帰宅した。一三日は閉庁土曜日、一四日は日曜日でいずれも出勤せず、一五日(休日)は、日直で登庁したが、一階で勤務し、二、三階へは上がっていない。一六日(火曜日)は、書類の作成に忙しく、電子手帳のことは、忘れていた。一七日の朝、電子手帳を預かったことを思い出して、O、Q、Nらに『こういうものを預かっている。』と言って金庫から被告人の電子手帳を取り出し、O係長ら三名の前で見せ、確認しているとき、何かゴツッと感じるものがあったので、裏表紙を開けてみた。すると、本人名義の質札が入っており、出して確認すると、奥の方に銀紙につつまれた薬の包みのようなものがあった。ピンセットで広げてみると、中から覚せい剤が出てきた。」旨証言するのであるが(記録六〇五丁ないし六一三丁)、重要な証拠物を被疑者から預かりながら、いかに休日をはさんだとはいえ、約一週間もの長期間、その保管を失念していたという点が信じ難い上、その証言する開披の状況は、「一月一八日朝、Qから『昨日、電子手帳を見てたら、中から覚せい剤様の物が出てきたので差し押さえた。』旨報告を受け、その後Pからも同様の報告を受けただけである。」というO証言(同五二九丁)と明らかに抵触している。また、Pは、一月一二日に電子手帳を保管した際、領置に必要な手続書類を作成し忘れたことを意識していた筈であるから、右の保管を思い出した場合には、遅まきながらではあっても、何はともあれ、まず正規の手続書類を作成すべきであり、通常の警察官であれば、当然そのような行動に出ると思われるのに、同人は、右手続をとることなく、むしろ、直ちにその無断開披の挙に出てしまったというのであり、その行動は、不可解の一語に尽きる(同人は、「こんなことをしちゃっていいのかなという疑問はなかったか。」との当裁判所の質問に対し、「多少ありました。」旨自己の行為が過失というよりは故意に近いものであったことを認めており<同六四九丁、もっとも、同人は、追及されて右証言を撤回している。六五〇丁>、甚だ悪質である。)。

4  更に、電子手帳から覚せい剤を発見したとする時点以降の警察官らの行動は、いっそう理解に苦しむものである。すなわち、P証言に被告人の供述を併せると、Pらは、電子手帳の中から覚せい剤を発見したあと、一旦これを元に戻した上、被告人を呼び出して、その面前で、電子手帳を再び開披してみせたが、被告人が、右覚せい剤は自分の物ではないとして、求められたその任意提出を拒否するとともに、紙包みについての指紋の鑑定を求めたため、同署警察官は、右紙包みの差押手続をしたということになるのであるが、その後の捜査の経過に関するP=M証言は、「右粉末については、予試験も、科捜研への鑑定嘱託もしていない。しかし、右不法所持事件は、正式に立件し検察官に追送致している。調査した結果では、二月二二日付で、検察官により『起訴猶予』処分がされていた。」というのである(記録四四六丁、六二八丁)。そして、公判段階における検察官の調査によると、紙包みについては、指紋の鑑定がされた旨の捜査報告書が存在する由であるが、その嘱託先が科捜研であるか同署鑑識課であるかは、結局判明しなかった(第一二回公判の釈明)。

5  被告人の所持品の中から覚せい剤様の粉末(それも、微量とはいえない量のもの)を発見しながら、警察官が、その粉末の予試験も本鑑定もしないまま、検察官に立件送致し、検察官が、これをそのまま「起訴猶予」処分に付するというような事態は、正常な捜査の遂行過程では考えられないことであり、もしそれが事実であれば、当然、何か特別の事情がなくてはならない。しかし、Mは、前記のような捜査しか行わなかったことについて、何ら合理的な説明をすることができなかった。また、同人は、当初、右追送致事実についての処分結果を聞かれても答えることができず、調査の上、次回公判でようやく前記の証言をしたものであるが、自らが追送致した重大な余罪についての処分結果を、当該事件の捜査責任者が知らないということも、常識上考え難いことである。従って、この点に関するM証言は、とりわけ理解に苦しむところといわざるを得ない。

6 次に、右覚せい剤については、押収品目録の所有者欄の記載を異にする二通の差押調書(又はその謄本)が存在する。すなわち、その一は、公判の初期の段階で弁護人に開示されたもので、所有者欄に「不詳」と記載され、備考欄の記載のないもの(謄本)であり、その二は、平成二年一〇月二三日に弁護人に開示されたもので、これには、所有者欄に「乙」、備考欄に「鑑定中」との各記載があるものである。

7 同一の押収物について、記載内容の異なる差押調書が二種類存在するということは、そのこと自体、まことに奇妙なことといわなければならない。右の点につき、検察官は、「警察官が当初作成した差押調書では、押収品目録の所有者欄を『不詳』としていたが(以下、「目録A」という。)、その後、右記載を被告人とすべきであるということになって、所有者欄に『乙』と記載した押収品目録(以下、「目録B」という。)を作成し、さきに作成した目録Aと差し替えたが、その際、目録Aを添付した差押調書謄本を控えとして残しておいた。ところが、その後、検察庁に記録を送付する際、本来破棄すべきであるのに、誤って一件記録とともに送付してしまったものである。」と釈明している(第一四回公判)。しかし、かりに右釈明内容が全面的に事実に合致するとしても、覚せい剤不法所持事件の最も重要な証拠物である覚せい剤の押収手続についてすら右のような杜撰極まりない処理をしている警察官の捜査手続については、その適法性に重大な疑問がさしはさまれるべきであろう。

8 更に、翻って、被告人の電子手帳を保管した目的に関する警察官らの証言自体が、その後の同人らの行動によって支持されていないという問題もある。すなわち、Mが、右電子手帳の保管をPに支持した意図が、その証言するとおり、証拠の収集という本来の捜査の一環としてであったとするなら、同人らは、当然、右手帳を操作して、これに内蔵されていると思われる情報を引き出し、本件捜査のため利用しようとする努力をして然るべきである。しかるに、右手帳を現に操作したというPも、一月一一日当日、被告人から、「この中に、覚せい剤関係者の名前も入ってるんだ。」と聞いたというO(記録五五〇丁裏)も、折角保管した電子手帳の中から、本件捜査に役立ち得る情報を引き出そうとする努力をした形跡が全くない。このことは、警察官の右手帳保管の真の目的が、捜査の遂行以外の他の点にあったのではないかとの疑いに連なり得る事情というべきである。

9  ところで、電子手帳の無断保管に端を発する右一連の事態は、本件採尿手続完了後のことであるため、一見すると、右手続の適否やこの点に関する警察官の供述の信用性と無関係であるかのように考えられないではないが(公判の初期の段階を担当した廣瀬公治検察官は、電子手帳の件は、本件公訴事実の立証と無関係であるなどとして、これに関係する書証の開示にも、著しく消極的な態度を示していた。)、決してそのようなことはなく、右の点と密接な関連を有する事柄と考えるべきである。なぜなら、もし、右の一連の事実が、無断で保管した電子手帳内に警察官が勝手に覚せい剤を入れ、それを被告人の面前で開披して、覚せい剤不法所持の事実を認めさせようとしたことを意味するのであれば(被告人は、まさにそのような罠であったと指摘する。そして、前記2ないし8指摘の一連の不審点、特に、紙包みから被告人の指紋が検出されず、その後の捜査官の捜査が著しく熱意を欠くことなどからすると、そのような疑いも、にわかに払拭し難いというべきである。)、右は、被告人の主張する尿のすり替えに通じる悪質な作為ということになり、採尿手続に関する警察官の証言の信用性にも大きく影響する。他方、百歩譲って、前記一連の事実が、直ちに証拠物に関する警察官の作為を強く疑わせるとまではいえないと仮定しても、これによれば、朝霞署の警察官は、少なくとも、①被告人の所持品の一部(電子手帳)を無断で事実上保管し、②右保管を一週間も継続し、③その後、これを被告人に返還することなく無断で開披するという違法な手続をしたことが明らかであり、更に、④一月一七日に行った覚せい剤の差押に関しても、差押調書を作成し直したり、原本と異なる差押調書謄本を作成したりするという著しく杜撰な手続をしたことになるのであり(なお、右差押の際、警察官は、右覚せい剤不法所持の事実につき被告人を逮捕していないのであるから、右差押は、本来、令状がなければできない筈であるが、警察官が、右令状の発付を得て差押をしたのであるか否かすらも、明らかでない。)、このような違法ないし著しく杜撰な手続を平然と行う警察官らの捜査手続には、たやすく全幅の信頼を置くことができず、同人らの採尿手続に関する証言の信用性は、電子手帳の無断保管に端を発する一連の疑惑により大きく減殺されるというべきである。

五 注射痕の写真について

1  本件において、検察官から被告人の腕部の注射痕の写真として提出されたポラロイド写真二枚には、被告人が自己の右腕関節部を左手人差指で示している状況が撮影されているが、右写真において、検察官が注射痕と主張する痕跡は、不鮮明であって、一見してこれを注射痕と確認し得るものではない。そして、右写真は、逮捕当夜(一月一一日)に撮影されたものであり、捜査当局としては、右注射痕とされるものの写真うつりが悪いことを熟知していた筈であるのに、その後再び強く犯行を否認し出した被告人につき、より鮮明な写真の撮影をしようとする努力を全くしなかったとされているのである。

2 覚せい剤自己使用事件において、尿鑑定書に次いで有力な客観的証拠は、被疑者の身体に残された注射痕である。もっとも、覚せい剤の体内摂取の方法は、必ずしも注射に限られず、他に何らの痕跡を止めない方法(例えば、嚥下や蒸気の吸引等)もあるので、注射痕が確認できないからといって、その者の覚せい剤自己使用の事実が直ちに否定されることはないが、何といっても、注射は、覚せい剤使用の代表的方法であるため、覚せい剤を自己使用して間のない被疑者の体(多くは腕)には、注射痕を確認できるのが通常であり、従って、覚せい剤事犯の捜査にあたる警察官は、被疑者の尿を採取してこれを鑑定に付するとともに、被疑者の身体(両手、両足など)を仔細に見分して注射痕の発見に努め、それらしいものを発見した場合には、これを写真に撮影して証拠の保全を図ることになる。そして、この写真撮影は、被疑者が同意する限り、身柄不拘束の場合ですら令状なくして行うことができ(被疑者の身柄拘束中の場合は、同意の有無にかかわらず、無令状で行うことが許される。刑訴法二一八条二項)、また、注射痕が急激に消失するということも通常考えられないから、撮影した注射痕の写真うつりが悪かった場合には、何度でも撮り直すことが可能である。

3  ところで、本件において、検察官が、被告人の注射痕の写真として提出した写真(平成二年一月一一日付写真撮影報告書添付の写真1、2)は、ポラロイドカメラを使用して撮影されたものであるが、これには、前記のとおり、被告人が左手の指先で右腕関節の内側中央付近を指さしている状況が写っており、右指先の延長線上には、わずかに赤みを帯びた、小さな斑点様の痕跡が見られる。そして、Qらは、一致して、右痕跡が間違いなく新しい注射痕であったと供述するのであるが、右写真にみられる痕跡は、一見して明らかな程注射痕としての顕著な特徴を備えたものではなく、当裁判所が第七回及び第一〇回各公判期日に行った公判廷における検証の際に、被告人の右腕及び左腕に見られた虫刺され様の発赤と大同小異のように見られないではない(特に、第一〇回公判調書と一体となる検証調書添付の写真参照)。また、右ポラロイド写真に撮影された痕跡が、写真自体としては、注射痕としての顕著な特徴を有するものではないことは、当夜、これを見た警察官が、当然理解したものと認められる。

4 これに対し、検察官は、右写真の痕跡が鮮明なものではないことを認めた上で、右は、単に写真うつりが悪いだけで、これが注射痕であったことは、被告人が左手の指でこれを指し示した状態で写真に撮られていること自体からも明らかであると主張する。しかし、被告人は、当日、一貫して犯行を否認しながらも、結局、逮捕後犯行を認めるに至ったものであり、右写真は、被告人が右自白をした際のものである。従って、右写真にみられる被告人の動作が、かりに、自己の左腕に注射痕が存することを被告人が認めたものと解し得るとしても(なお、被告人は、後記第九、二4のとおり、写真撮影の際、ただ警察官から言われたとおりにポーズをとっただけである旨供述しており、右供述のとおりであるとすると、右写真は、不利益事実の承認を含まないことになる。)、右は、結局、当夜の自白と一体をなすものと考えるのが相当であって、自白を離れた独自の証拠能力・証拠価値を有するものではない(なお、弁護人は、自白の任意性・信用性を激しく争っているので、この点は、のちに項を改めて検討する。)。

5 また、昭和六三年九月二三日付写真撮影報告書及び平成三年九月一一日付写真撮影状況報告書によると、被告人に有罪判決が確定している昭和六三年の前科の事件及び被告人が有罪を自認している平成三年六月一日付起訴状記載の事実(判示各事実)の各捜査の際、撮影された被告人の腕部の写真でも、その注射痕とされる痕跡は必ずしも明瞭ではなく、この点からすると、あるいは被告人は、注射痕が残りにくい体質なのではないかとも推察されるが、右両事件の際の腕部の写真は、いずれも、注射したとされる日から数日(四日又は六日)を経過した時点で撮影されたものであるのに対し、本件の前記写真は、注射後一日も経過しない時点で撮影されたとされるものであるから、両者を単純に比較して同列に論ずることはできない。

6  このように、朝霞署の警察官は、覚せい剤自己使用の事実を当初強く否認していた被疑者(被告人)の腕部のポラロイド写真を撮影し、その写真に写された痕跡が注射痕としての顕著な特徴を有するものでないことを理解した筈であるのに、その後、改めてより精密な写真を撮ったり、専門の医師に見せてこれが注射痕であることの確認を求める等、客観的証拠の保全に何ら意を用いなかったとしているのである。もし、右証言が事実であったとすると、同署の警察官らは、覚せい剤自己使用事件の捜査に関し、極めて初歩的なミスを冒したことになるが、覚せい剤事件に手慣れた警察官が、揃いも揃ってそのようなミスを冒したとは通常考え難いことからすると、右は、より精密な写真を撮影すると、注射痕が存在しないことが明確になってしまうので、ことさらに不鮮明な写真を撮影し、痕跡がはっきりしないのは、単に写真うつりが悪いだけで注射痕は厳として存在したのだと強弁する余地を残そうとしたのではないかとの疑いに通ずるものというべきであろう。これに対し、被告人は、当公判廷において、ポラロイドカメラでだけでなく、他の精巧なカメラでも、腕部の写真を警察官に何枚も撮られている旨供述しており、右供述に現れた警察官の行動の方が、覚せい剤自己使用の否認事件を捜査する捜査官の行動として、より自然であるが、もしそうであるとすれば、右精巧なカメラにより撮影された写真が、何故に証拠として提出されないのかという点が、改めて問題とされなければならない(警察官がこのような写真は存在しないと事実に反する供述をしているのであるとすれば、その理由は、精巧なカメラで撮影した写真を提出すれば、腕部に注射痕が存在しないことが明確になってしまうからであるとしか考えられない。)。

7 そして、注射痕に関しては、他にも警察官の証言を疑わせる事情がある。すなわち、Q、Mらは、最初被告人方居宅で被告人の腕部を見分した際、その左腕だけを見て、右腕は見なかった旨一致して証言するが(記録三四丁、四一二丁)、覚せい剤自己使用の嫌疑を抱いて被疑者に尿の提出を求めている警察官が、左腕の見分だけで満足し、右腕を見分しなかったというのは不自然である。もっとも、左腕の見分によって、真新しい注射痕を発見したというのであれば、それはそれで理解できるが、同人らが、のちに朝霞署において、被告人の左腕の写真を撮影せず右腕だけの写真撮影をしている点からみて、自宅での実況見分時にQらが、被告人の左腕に、新しい注射痕を発見していたとは考えられない。従って、この点に関すQ=M証言はにわかに信用することができず、「自宅では、両腕とも調べられたと思う。」とする被告人の供述(同二四〇丁)の方が信用性が高いと認められる。そうすると、警察官らは、自宅で見分した際、被告人の右腕に新しい注射痕を発見できなかったのに、警察署ではこれを発見したというのがいかにも不自然であるため、自宅では右腕を見分しなかったことにして、この点の不合理を糊塗しようとしているのではないかとの疑いを否定することができない。

8 以上のとおり、注射痕の写真撮影をめぐっては、警察官らの証言の信用性を疑わせる事情が、多多認められる。

六  尿の再検査の訴えを無視したことについて

1  被告人は、一月一一日に朝霞署において提出したとされる尿の予試験の結果が陽性であったことを不審として、捜査の初期の段階から、捜査官に対し、尿の再検査を求めている。

2  すなわち、被告人は、一月一一日朝霞署に任意同行されて尿を提出し、右尿の予試験の結果が陽性であったと告げられたのち、一旦は、「今朝午前二時すぎころに、都内豊島区の通称環状六号線から奥に入った名前のしらない公園内で、人から借り受けた注射器を利用して覚せい剤を右腕に射ったことは事実です。」という、わずか一〇行の簡単な供述調書に署名指印したが(右供述調書作成の経緯及びその任意性・信用性については、のちに詳しく検討する。)、その後は一貫して自己使用の事実を否認し、特に、一月一三日の検察官の取調べに際しては、「確かに尿検査を受けその結果覚せい剤が検出されたということですが、自分で容器を洗って尿を入れた後封印を自分でするまでの間およそ一〇分か二〇分間私の目の届かない所に置いてあったので、その間に工作された疑いがあるので、その結果は信用できません。その理由は、自分では覚せい剤を使用した覚えはないからです。」という、その後の公判廷における弁解と同旨の弁解をしたのち、「その為もう一度尿検査をしていただきたいと思」う旨、尿の再検査を求めている。右弁解は、被告人の同日付の検面に明確に記載されている。

3  覚せい剤の体内滞留時間については、必ずしも確定的なデータはないが、少なくとも摂取後二、三日以内であれば、ほぼ確実に、尿中から覚せい剤が検出されると考えられている(現に、被告人が保釈中に犯した判示第一の犯行に関しては、採尿が使用後丸四日を経過した時点で行われたにもかかわらず、尿中から覚せい剤が検出されている。)。被告人が検察官に右再検査の訴えをした時点では、被告人が自白した犯行(自己使用)の時点から、せいぜい二日半程度しか経過していなかったことが明らかであるから、前記のような警察官の不正行為の介在を疑うべき具体的事実の指摘を受けた捜査官としては、万一の誤りなきを期するため、当然、被告人の希望する尿の再検査をして然るべきであろう。しかるに、本件においては、検察官を含め捜査官は、被告人の右訴えを完全に無視してしまったのである。

4 捜査官が、この点に関する被告人の訴えを無視した理由は、明らかではない。しかし、前記のように、ポラロイドカメラで撮影した被告人の腕部の写真が、甚だ不鮮明で、右写真だけからでは、腕部に注射痕が存することを確認し得ないことが明らかであったにもかかわらず、捜査官がそれ以上鮮明な写真を撮影しようとする努力を一切しなかったと証言していることと併せ考えると、右の点は、正式に尿の再検査をすれば、尿から覚せい剤反応が出ないことを捜査官(特に、警察官)が知っており、これにより自らの不正な工作が発覚することを怖れたからではないかという疑惑に通ずる捜査上の問題点であるというべきであろう。

5 このように、本件捜査を担当した朝霞署の警察官らが、被告人の訴えを無視して尿の再採取・再鑑定という一挙手一投足の労を敢えてとろうとしなかったことは、尿のすり替えをしなかったとする警察官らの証言の信用性を低下させる事情であるといわなければならない。

第七  本件捜査をめぐるその余の問題点――警察官らの証言の信用性を疑わせる事情(2)

一  緒節

1 本件捜査をめぐる警察官らの言動及びこれに関する証言内容に、常識上にわかに理解し難い疑問点が多くみられることは、前章において詳細に指摘したとおりである。

2 これらの疑問点は、それ自体、朝霞署において被告人から提出を受けた尿の取扱いに関する警察官の証言の信用性を疑わせるものであるが、そのような目で本件の捜査経過全般を見直してみると、そこには、他の同種事件には通常みられない特異な事実関係を認めることができ、これらの点もまた、右証言の信用性評価の際に、看過することはできないと思われる。

3 そこで、以下、前章で指摘した以外の捜査上の問題点について検討することとする。

二  田園調布署の警察官との接触について

1 前記第四において指摘したとおり、被告人は、昭和六三年以来、田園調布署の警察官により、覚せい剤取締法違反の容疑で再三取調べを受けている。

2 そして、被告人は、最初の昭和六三年の事件についてこそ、有罪判決(懲役一年、三年間執行猶予)の言渡しを受けたが、その後の平成元年一一月の事件(覚せい剤の微量所持の容疑)及び同年一二月の事件(覚せい剤の共同所持の容疑)については、尿中の覚せい剤反応が陰性であるとか、被告人の弁解を崩す証拠が十分でないなどの事情により、いずれも起訴を免れている。

3 右一連の事件において、被告人は、主として、田園調布署のS刑事(以下、「S刑事」又は「S」という。)の取調べを受けたが、その間、同刑事から種種の助言を受けたこともあって、覚せい剤関係者と絶縁するため、同刑事の捜査に進んで協力する姿勢を見せていた。そして、特に、同年一二月二七日被告人が最後に釈放された直後からは、S刑事の側からもたびたび被告人に電話をかけて連絡をとり、翌平成二年一月四日には、被告人が田園調布署へ出頭して、同刑事と面談している。以上の点については、S刑事自身当公判廷において認めており、客観的に明らかなところである。

4 ただ、右一連の接触の際、両名の間でどのような会話が交わされたのかについては、被告人とS刑事の各供述は、一致していない。まず、被告人は、「覚せい剤関係者との交友関係を断ち切りたいと考えていたところ、S刑事から、その者たちの情報を流せばもう近づいてこないから、それが手を切る一番良い方法だと言われたので、同刑事が知りたがっていた覚せい剤関係者と思われるTやUについて知っている情報(Tの自宅でVが覚せい剤を見たということなど)を伝えた。同刑事からは、『現物のあるところを押さえるのが、我々にとっては一番良いことなんだ。』とも言われ、情報が入った場合にはすぐ教えてくれということなので、同刑事のポケットベルの電話番号を聞いて教えてもらった。一月四日に同刑事と会ったあとにも、三、四回電話で交信し、TやUから連絡が入ったか否かを聞かれており、前にTと立ち話しをした時の話をしたら、『もっと深く聞き出せ。』と言われた。」(記録二一二丁ないし二二一丁)、「逮捕当日の一月一一日も、昼ころS刑事から電話が入り、当日会って話をしようと言われた。」(同二三四丁)などと供述する。被告人の右供述は、必ずしもその趣旨明瞭でない点もあるが、公判全体を通じ、一貫してされているものであり、その供述の特異な内容等に照らし、その信用性を簡単には否定し難いものである。

5 これに対し、Sは、前記のとおり、一二月二七日以降、被告人と何回か接触を持ったこと自体は、これを認めるものの、被告人に対し、Uら覚せい剤関係者の逮捕に必要な証拠の入手を被告人に求めた事実を否定する(記録四九四丁)。しかし、他方、同人は、被告人との会話の中で、TやUの話が出て、被告人に対しUの行動を確認したこと、被告人が覚せい剤をやめるという話が出、自分の方からやめなさいという話をしたこと、被告人がSに話したというVという人物の名前を被告人から聞いたことがあること、自分のポケットベルの番号を被告人に教えたことなど、被告人が供述する具体的事実関係の主要部分を認めている(記録四八九丁、四九一丁、四九二丁、四九四丁、五一三丁)。しかも、同人は、そもそも何故に、既に身柄を釈放した被疑者(被告人)とこれ程密接な連絡をとり、覚せい剤関係者のことについて会話を交わす必要があったのかについて、納得すべき理由を説明することができず、最終的には、「ポケットベルの番号を被告人に教えたのは、Uらの行動を知った時にはすぐ連絡してもらえるようにという気持ちもあったのではないか。」との弁護人の尋問に対し、「そういうのも含まれていると思」う旨証言するに至っているのである(同五一六丁裏)。

6  これらの点からすると、S刑事が、覚せい剤関係者との交友関係を断ち切りたがっている被告人の気持ちを利用し、被告人が本件により逮捕される直前まで、被告人に対し、覚せい剤関係者(特に、T、Uら)に関する情報提供や捜査協力を依頼していたことは、事実であると認めざるを得ない。そして、このことは、「一月一一日未明、池袋付近で、見知らぬ男に声をかけられて覚せい剤の話を持ちかけられた際、Tについての情報を得たいがために、その男と対話した上、相手を信用させるため、同人から、覚せい剤の水溶液の入った注射器を受け取って右腕に射つまねをしてみせた。」という被告人の当公判廷における弁解の採否を決する際無視できない事実であると同時に、後記のような被告人方に対する捜索の時期や捜査の端緒に関する疑問点とあいまち、捜査官側の作為を疑わせる事情の一つともなるというべきである。

三  被告人方に対する捜索の時期について

1 被告人方に対する朝霞署員の捜索は、前記のとおり、平成二年一月一一日夕刻(午後七時二〇分ころ)行われた。

2 ところで、被告人の供述によれば、被告人は、前日来、○○の仕事で遅くなり、自動車を運転して、一一日午前二時ころ、池袋のファミリーマートでおにぎりを買ったりした際、四〇歳すぎの見知らぬ男性から声をかけられ、前記二6の経緯で、覚せい剤水溶液を右腕に注射するまねをしてみせた、というのである。

3 また、被告人は、「一一日帰宅後、S刑事から電話がかかってきたので、前夜(当日未明の趣旨と思われる。)のことを話そうと思い、『一寸変わったことがあった。』旨話したところ、同刑事は、『葬式があって出られないので、それが済み次第、自宅の方に連絡を入れるから、会って話そう。』と言った。自分は、S刑事に指示されたように在宅し、電話を待っていたが、その後電話がないままに、朝霞署員の捜索を受けた。」旨供述している(記録二三四丁以下)。そして、Sも、被告人の右供述に現れた事実のうち、一一日に自分の方から被告人に電話をしたこと、当日、自分が葬式に列席した可能性があることなどを認めている(同四九七丁)。もっとも、同人は、被告人と当日会う約束になっていたとの点を否認するが、同人が列席した可能性があると認める葬式の件については、同人から聞く以外に被告人がこれを知る方法があるとは思われないから、右各供述によれば、一月一一日のS刑事とのやりとりに関する被告人の供述の信用性を否定することは困難である。従って、被告人は、一一日のSとの電話に際し、後刻同人と会って前夜(当日未明)の件について報告する意向であり、Sからの連絡があるまで在宅するよう指示されていたと認めるのが相当である。

4  ところが、被告人がS刑事からの再度の連絡を待ち受けていた一月一一日夕刻、被告人は、朝霞署による自宅の捜索を受けることになったわけである。朝霞署と田園調布署との間で、被告人に関する情報交換があったとする証拠は、全く提出されていないし(むしろ、S刑事は、これを明確に否定する。記録四八九丁裏)、安易な想像は慎むべきではあるが、被告人が、前夜(当日未明)覚せい剤関係者と接触し、きわどい行為に及んだと認めている時刻から十数時間しか経過していない時点において、被告人が自宅の捜索を受けた上、前記のとおり、尿の提出を求められたということ、そして、その直前に、被告人と田園調布署のS刑事との間で、前記のようなやりとりがあったということは、偶然としては、余りにタイミングが良すぎる感を拭い難い。

5 そして、この点に加え、朝霞署による本件捜査に関しては、県警本部から派遣中の捜査員が二名(Q、O両刑事)も加わっていたことをも併せ考えると、朝霞署と田園調布署との間では、直接又は本部を通じ、被告人に関する何らかの情報交換が行われていたという想定も、成り立つ余地があると思われる(なお、後記四8、9参照)。

四  捜査の端緒等について

1 更に、本件捜査の経過を不透明にしているものとして、捜査の端緒等に関する捜査官らの証言が極めてあいまいであり、しかも、明確な証拠が示されていない点を挙げることができる。

2 すなわち、朝霞署の警察官らは、弁護人から、被告人方へ捜索に赴いた際の捜査の端緒を尋ねられて、覚せい剤事件で逮捕した被疑者から「被告人が東京都内新宿で覚せい剤を譲り受けた」という情報を、平成元年一〇月初めころ得たとしていたが(Q証言、記録二四丁裏)、その後、右逮捕被疑者の氏名は「捜査の秘密」であるとして証言を拒絶する一方(M証言、同四一二丁)、逮捕被疑者である右情報提供者(以下、「提報者」という。)を逮捕したのは、一〇月下旬ころであったとし(M証言、同四五四丁裏)、また、右提報者は、同種前科のある暴力団員で、尿検査の結果も陽性であったが、起訴猶予処分に付された旨証言した(同四五四丁裏ないし四五五丁)。

3 右証言を受けて、弁護人は、「(1)平成元年一〇月一日から同年一一月三〇日までの間に、朝霞警察署から、尿の覚せい剤反応に関する鑑定嘱託を受けた事実の有無、(2)右鑑定嘱託があった場合には、受付日付、被疑者の氏名、鑑定結果及び内容」について、科捜研に対する公務所照会の申立てをしたので、当裁判所はこれを採用し、平成三年二月七日付書面により右照会をしたところ、科捜研からは、同年二月一二日付書面により、「右照会の期間に、朝霞署から尿の覚せい剤含有の有無について鑑定嘱託を受けた事実はない。」旨の回答があった。

4 右回答のあったのちである第一八回公判(平成三年四月二三日)に、三たび証言台に立ったMは、「以前、提報者を逮捕したのは一〇月下旬であった旨証言したが、それは九月下旬の記憶違いであった。」旨証言するに至り、被告人が覚せい剤を譲り受けたとされる日も、「一〇月初旬と証言したのは、「九月初旬」の誤りであったとしたが(記録六九二丁ないし六九三丁)、右提報者の氏名は、「提報者の生命、身体、財産等に危害が及ぶ恐れがある。」として、あくまでその開示を拒んだ(同六九八丁)。

5 当裁判所は、その後、弁護人の申立てを容れて、科捜研に対し、同年三月二〇日付で、期間を「平成元年九月一日から三〇日までの間」に限って、前記3と同一内容の照会をしたところ、科捜研からは、同年四月一〇日付書面により、右期間には、六日に二件、八日、二〇日、三〇日に各一件(計五件)の尿の鑑定嘱託があり、いずれも陽性の結果を得たが、右被疑者の氏名及び鑑定内容(鑑定書控えの写し)については、第三者の「名誉保護等人権保護」を理由に回答を拒絶された。

6 検察官は、警察関係者の右のような意向を考慮して、提報者の氏名の開示に応じなかったが、第一八回公判における弁護人の再度の開示の申し出に応じ、提報者として、九月三〇日付で尿の鑑定嘱託をされた被疑者の氏名及び同人の尿の鑑定書を弁護人に開示した。被告人・弁護人は、「W」とされる右提報者の氏名に心当たりがないとしているが、検察官は、右Wなる者に関する不起訴記録の開示に応じていないので、同人が果たして真実被告人に関する提報者であったのかどうかを、記録に基づき確認することはできない。

7 提報者から本件の捜査の端緒を得た時期等につき、警察官の証言がこのように動揺し、しかも、これと矛盾する科捜研の回答に接して訂正されるという不明朗な経過をたどっているのはなぜか、また、捜査当局が、捜査の秘密を金科玉条として、捜査の端緒に関する証拠書類の開示を頑なに拒んでいるのは、実質的にはいかなる理由によるのか(Mの言う「提報者の生命、身体、財産に危険が及ぶおそれ」という理由は、一応もっともらしいが、本件は、女性被告人による単純な自己使用事件である上、右提報者自身が、前科のある暴力団員であることなどからすると、必ずしも説得的な理由ではないというべきであろう。)、これらの点は、本件の公判審理において、遂に明らかにすることができなかった。確かに、Mの証言の訂正は、単なる記憶違いにすぎないといっていえないこともないであろう。しかし、本件の公判審理において、弁護人が、当初から、捜査の端緒を不審とし、これに関する書証の開示を求めると同時に、新証人の反対尋問においても、この点を執拗に聞き出そうとしたことは、その後に証人に立ったMも知らない筈がないと思われる。従って、そのMが、提報者からの情報提供の時期を、完全に一月も間違えて証言するというのは、やはり不自然なことといわなければならない。

8 このように考えてくると、Mらは、「捜査の秘密」として肝心な点に口を閉ざしておきさえすれば、裁判所がそれ以上事実関係の解明に乗り出すことはあるまいと事態を楽観して、提報者からの情報提供の時期につき適当に証言していたのではないかという疑いを払拭し切れない。そして、もしそうであるとすると、他に特段の書証の開示のない本件においては、科捜研に対し九月三〇日付で尿の鑑定嘱託をされたという人物(W)が、果たして、真実本件の提報者であったかどうかも疑問とされざるを得ない。右の点に加え、弁護人が主張するように、本件捜査の端緒になったとされる覚せい剤譲受けの事実について、朝霞署の捜査員が、本件捜査の過程において、被告人に対し一言も質問を発していないこと(M証言、記録四三四丁裏)、被告人方の捜索は、かなりの期間内偵を続けた末のものであるというのに、右内偵によっては、何ら新たな証拠を発見することができなかったということ(同四三二丁以下)、朝霞署が、一月一一日に被告人方を突然家宅捜索した理由が全く明らかにされていないこと、被告人方の捜索に着手したのちの捜査の過程に前記のような多くの重大な疑問点があること、更に、前記二、三記載の諸点などをも併せ考えると、被告人に対する朝霞署の本件捜査は、Mらが言うような捜査の端緒に基づく地道な内偵などを経たものではなく、一般には公表を憚るような第三者(例えば、被告人が当日未明に接触したという覚せい剤の売人)からの、誤った又は被告人を罪に陥れようとする「ためにする」情報によって行われたのではないか。という疑問も、簡単にはこれを排斥し難いというべきであり、更にいえば、朝霞署と田園調布署の間で、直接又は間接に、何らかの情報交換があったのではないかという前記三の疑問も否定できなくなると思われる。

9 本件は、埼玉県警察に属する朝霞署が、他の都道府県警察である警視庁の管轄下にある被告人の住居を捜索したことに端を発する特異な事案である。都道府県警察の権限行使は、必ずしも本来の管轄区域内に限定されるものではないが、右警察が管轄区域外に権限を及ぼすことについては、警察法六一条の制約があり、また、右制約のもとにおいて、管轄区域外に権限を及ぼす場合には、「他の都道府県警察と緊密な連絡を保たなければならない。」とされている(同条二項)。右のような警察法の規定の趣旨からすれば、埼玉県警察所属の朝霞署が警視庁の管轄下にある被告人の住居を捜索した本件においては、むしろ、朝霞署は、県警本部を通じて警視庁と緊密な連絡を保ったと考える方が常識に合致し、その場合には、田園調布署による被告人に対する捜査の経過等被告人に関する情報を、朝霞署が入手していた可能性は、十分にあるというべきであろう。朝霞署の警察官は、本来であれば自らの権限行使の適法性の根拠となるべき捜査の端緒の開示を、前記のように合理的とはいえない理由により頑なに拒否したが、右事実は、右警察官らにおいて、これを開示することにより、警視庁ないし田園調布署との緊密な連絡ないし情報交換の事実が白日のもとにさらされることを怖れたからではないかという疑惑に連なり得るものというべきであろう。

五 まとめ

1  被告人が、かねて、田園調布署のS刑事と密接な関係を保っており、同刑事から、覚せい剤関係者の動静の確認や情報の提供を求められ、これに協力する姿勢を示していたこと、被告人が、池袋付近において、覚せい剤の売人と接触したまさにその日に、S刑事と電話で話をして、当日会う約束をし、その際同人から、電話連絡があるまで在宅するよう求められていたこと、朝霞署による被告人方に対する捜索は、かくして被告人が在宅している際に行われたものであるが、同署が、どのような理由・端緒により、右捜索を行うに至ったかは、結局明らかにされなかったこと、捜査の端緒等に関する警察官らの証言は揺れ動き、また、検察官が最終的に開示した提報者の氏名も、果して、真実の提報者であるとの確証がないこと等、本件捜査に関連する疑問は止まるところを知らない。

2  これらの疑問は、確かに、鑑定資料たる尿のすり替えの有無という本件の最大の争点に直接関係するものではない。しかし、もしこれらの疑問が、弁護人が指摘するように、第三者からの誤った又はためにする情報により朝霞署が被告人の居宅の捜索の踏み切ったのではないかとか、更には、朝霞署と田園調布署との何らかの事前の情報交換があったのではないかとの疑惑に連なるとすれば、右は、朝霞署の警察官をして違法捜査をも辞さないと決意させる一つの有力な契機となり得るものと思われる。

3  このような意味において、右に検討した事情は、間接的ながら、尿すり替えの有無に関する警察官らの証言の信用性に影響を及ぼすものと考えるべきである。

第八  尿すり替えの可能性について

一  緒節

1 以上に検討したことを前提として、以下、最大の争点である被告人の尿のすり替えの可能性の有無について検討する。

2 本件の捜査経過によると、被告人の尿が他の第三者の尿とすり替えられた可能性があるとすれば、それは、被告人が尿を採取した採尿容器に、補導室で封印・指印するまでの間に限られると考えられること、及びその間に採尿容器が一時被告人の視界から消えた時期があったかどうかについて、被告人と警察官の供述が対立していることは、前記第五記載のとおりである。そこで、まず、右の点に関する両供述の信用性について検討するが、検察官は、更に、(1)朝霞署においては、すり替えようにも、当時、他の覚せい剤被疑者の尿を入手し得ない状況にあったから、そのようなすり替えは、客観的に不可能であり、また、(2)同署においては、そのような違法捜査をしてまで被告人を罪に陥れようとする動機がないとも主張しているので、順次、これらの点についても検討を加える。

二  朝霞署で提出した尿の行方について

1 被告人が朝霞署で提出した尿の行方については、前記第五記載のとおり、「被告人に採尿容器を持たせて補導室へ行き、その面前で予試験用の分を取り分けて、被告人に封印・指印させた。」とするQ=M証言と、「採尿容器をQに渡すと、同人は、先に便所を出て、一五分か二〇分後に採尿容器を持って補導室に現れたもので、その間、容器は自分の視界から消えたことがある。」とする被告人の供述が対立している。

2 そこで、右対立する供述の信用性について検討するのに、Q=M証言については、(1)それが両名のほぼ一致した供述であること、(2)その供述に現れた状況は、覚せい剤被疑者からの採尿に関する通常の方法とそれ程違わないこと、(3)Qにとって、採尿容器を別室に持ち出す必要があったとすれば、尿を他人の尿とすり替えるというようなこと以外に、その理由は考えられないが、いやしくも現職の警察官がそのような行動に出るということは、通常考え難いことなどの点で、相当程度その信用性が保障されていると考えられる。しかし、他方、被告人の供述についても、その供述が甚だ特異で具体的な状況を描写するものであること、被告人は、捜査のごく初期の段階から、これと同旨の供述をしており、右供述は、その後、ほぼ完全に一貫していることなどの特徴を備えている。

3 ところで、右の点に関連し、被告人は、「一月一三日の検察官の取調べの際、検察官に対し、採尿容器が一時自己の視界から消えたことがある旨訴えたが、その際検察官から『じゃどのくらいその尿が目の前から消えたんだ。』と質問があったので、付添いのR婦警に振り向いて、『二、三〇分だったでしょうか。』と聞いたら、R婦警は、『そんなに長くはなかったと思う。』とおっしゃって下さった。」旨注目すべき供述をしている(記録二四五丁ないし二四六丁)。右供述は、これまた極めて特異で具体的な情景を描写するもので、かなりの迫真力がある。

4  そして、問題のR婦警は、(1)被告人が、右検察官の取調べの際、「一〇分から一五分くらい目の前から尿が持ち出された。」と言って、同女の方を振り返ったこと、(2)その際、同女は、(はっきり覚えていないが、)「そんなに長くはない。」と言ったかもしれないことなど、被告人の前記供述に現れた主要な事実を認める趣旨の証言をしているのである(記録一〇三丁ないし一〇五丁)。もっとも、Rは、右(2)の発言の趣旨は、「自分は、その時印鑑を取りに一分位席を外したことがあるので、もしその間に持ち出されたとしても、そんなに長い時間はないんじゃないかという意味で、そう言ったかもしれない。」などと、その発言の趣旨を敷衍している。

5  しかし、右にいう「もしその間に持ち出されたとしても、そんなに長い時間ではないという意味で」という同女の説明は、到底納得し難いものである。なぜなら、同女も、右応答が、前記のとおり、採尿容器が持ち出されたことを前提として、その時間の確認を求める問いかけに対するものであったことを認めているが、同女の証言によると、同女は、被告人の右のような問いかけに対し、「持ち出されたことがあるかどうかわからないが、持ち出されたとしても」という、前記問いかけの前提とは異なる条件を勝手に設定して応答したことになるのであって、前記のような問いかけに対し、同女が、その証言するような意味で右の応答をしたというのは、問いかけと応答がかみ合っていないという意味で不自然であるのみならず、もし、同女が証言するとおり、席を外した時間がわずか一分程度にすぎず、その前後においては、尿が間違いなく室内にあったというのが事実であるとすれば、同女としては、被告人の前記問いかけに対し、尿が室外に持ち出された可能性を端的に否定するのが当然と思われるからである。もちろん、そのような短時間内にも、一旦尿が室外に持ち出され再び元の位置に置かれるというような事態が絶対にあり得ないとはいえないが、そのような可能性は、日常まず無視し得る程小さいものというべきであるから、同女が、そのようなわずかな可能性が前提として、「そんなに長くはない。」と答えたかもしれないというのは、牽強付会の類いに属するというべきであろう。

6  このようにみてくると、R証言は、形式的には、尿が室外に持ち出されたことがないとする点でQ=M証言を支持するものではあるが、実質的には、むしろ、被告人の供述の信用性を裏付けるものと考える方が、常識に合致する。

7 右に指摘したところに加え、前記第六、第七記載のとおり、朝霞署の本件捜査の経過及びこれに関する警察官の証言に、前記のとおり、常識上容易に納得し難い不審な点があり、これが採尿容器の行方に関する証言の信用性をも大きく低下させる要因として働くことを併せ考えると、被告人の尿の入った採尿容器は、被告人により封印・指印される前一〇分ないし十数分間、警察官により被告人の目の届かない別室へ運び出されていた時期があったものと認めるのが相当であり、少なくとも、そのような事実があったのではないかというかなり強い疑いが残るといわなければならない。

8  そして、警察官らが、被告人から提出を受けた尿を、被告人の目の届かない別室へ運び出す必要性は、正常な捜査の遂行過程においては、全く存在せず、むしろ、このような行為は、被疑者から疑惑を受けるものとして、強く戒められている筈である。そうすると、右警察官が、それにもかかわらず、尿を別室へ搬出したことは、右尿へ何らかの作為を施す必要があったからではないかとの疑惑に連なるものというべきであり、また、警察官らが、右の点について、尿の別室への搬出を極力否定する、事実に反する疑いの強い証言を一致してしているということは、右の疑惑をいっそう強めるものというほかない。

三  すり替えるべき尿の存否について

1 被告人の尿の入った採尿容器が、封印・指印前に、一時被告人の視界から消えた時期があったとしても、もし、検察官が主張するとおり、当時朝霞署において、すり替えるべき他の覚せい剤被疑者の尿を入手することが客観的に不可能な状況であったとすれば、尿のすり替えの疑惑は解消することになる。そこで、以下、右の点について検討する。

2 取り調べた朝霞警察署長作成の平成二年一一月二〇日付捜査関係事項照会回答書添付の同署における留置人一覧表および科捜研技術吏員安藤司郎作成の平成元年一一月二〇日付鑑定書(写し)によると、平成元年一二月一三日以降翌一月一一日までの間に、覚せい剤取締法違反罪の容疑で朝霞署に身柄を留置されていた被告人・被疑者としては、新座署から受託を受けた女性一名(田中夏子)がいるが、同女の尿の鑑定結果は、被告人の尿のそれと特徴を異にしていることが認められる。そして、検察官も主張するとおり、尿は腐敗し易い物質で、長期間保存すると、たとえ冷蔵していても、悪臭を放つ等のことが考えられるので、平成元年一二月以前の段階で逮捕・勾留した被疑者の尿を、朝霞署が保存しておいて、被告人の尿とすり替えたということは、確かに考えにくいことである。従って、当時朝霞署には、すり替え用の尿が存在しなかったという検察官の主張は、もっともなように考えられないではない。

3  しかし、そうであるからといって、当時朝霞署の警察官にとって、他の覚せい剤被疑者の尿を入手することが、不可能であったということにはならない。なぜなら、覚せい剤を使用していると疑われる者から尿を採取するのは、必ずしもその者が身柄拘束中である場合だけに限られず、身柄不拘束の者から尿を採取することもあり得るが、そのような者の氏名は、右留置人一覧表には記載されていないことが明らかである。また、他の罪名で逮捕された者から尿の提出を受けることも、実務上時に行われているところである。もちろん、このような者から採取された尿から覚せい剤が検出された場合には、本来、覚せい剤取締法違反罪により身柄を拘束されるのが通常であり、その場合は、前記一覧表に氏名が記載されることになる筈ではあるが、もし警察官がその気になれば、かくして提出された尿につき、予試験で陽性反応を確認したのち、陰性であったということにして(Mは、前記のとおり、被告人方居宅で採取した尿の予試験をしたところ、陽性ではあったが、何らの手続をとることなく、容器とともに廃棄してしまったと証言している。右証言が真実であるかは別であるが、同人がそのような証言を堂堂としているということは、朝霞署の警察官は、予試験で陽性反応を呈した尿を、陰性であったということにして処分することも可能であったことを示唆するものというべきである。)、本鑑定へ回すことなくこれを別途保管し、尿提出者の覚せい剤取締法違反罪の容疑を不問に付してしまうことも不可能ではない。警察官のこのような手の込んだ違法行為を想像することは心の痛むことであり、わが国の捜査官に限って、そのような不正に走ることはないものと考えたいが、朝霞署員の本件捜査に関する一連の不審な言動、証言などからすると、このような可能性も、絶対にないとはいい切れず、むしろ、以下の各事情に照らせば、右可能性は単なる想像や抽象的可能性に止まるものとはいえず、かなりの確度をもった可能性というべきである。

4 証人Lは、当公判廷において、平成元年九月に田園調布署に身柄を拘束された際には、当時覚せい剤を使用しており、尿鑑定の陽性反応を覚悟していたが、覚せい剤関係者であるUやXの名前を出したら、尿から覚せい剤が出なかったことになり、不問に付されたことがあった旨証言している。右L証言は、必ずしもその趣旨明瞭とはいえず、また、同人が覚せい剤事件で再再身柄を拘束されている、いわゆる歴戦のつわものであると思われるところからみて、右証言がどこまで信用できるかは慎重に判断しなければならないが、予試験の結果が陽性の尿を、警察官限りで陰性として処理し得ることを指摘する限りでは正当なものを含むと認められ、前記3の推定に一つの論拠を与えるものというべきである。

5 また、M証言によれば、前記第七、四2のとおり、朝霞署において、平成元年九月末に覚せい剤取締法違反罪で逮捕した人物(本件の提報者とされる人物)については、暴力団関係者で同種前科を有し、しかも尿の覚せい剤反応が陰性であったというのに、「起訴猶予処分」という、常識上理解し難い寛大な処分に付されたとされている。もし右証言が真実であるとすると、これなども覚せい剤取締法違反罪の捜査においては、捜査当局によって、通常考えられないような異例の措置がとられ得ることを示す一例であると思われる。

6 更に、もし朝霞署と田園調布署が、何らかの意味で接触を保っていたことがあるとすれば(そのような想定が、必ずしも荒唐無稽のものとは思われず、警察法の規定の趣旨などからみると、むしろ、本件捜査にあたり、両警察署が、直接又は間接に、緊密な連絡をとっていたと考える余地が十分にあることについて、前記第七、三、四参照)、朝霞署が、田園調布署から他の覚せい剤使用者の尿を予め入手しておくことは、いっそう容易であったと思われる。

7 以上の検討によると、朝霞署が、被告人の尿とすり替えるべき尿を入手することが、当時の状況に照らし不可能であったと認めることはできず、右すり替えの客観的可能性は、現に存在したというほかはない。

四  動機の存否について

1 検察官は、朝霞署の捜査員には、右のような重大な犯罪行為を犯してまで、被告人を罪に陥れるべき動機がないと主張している。

2 Q、Mら朝霞署の警察官の証言を、そのまま額面どおりに受け取れば、まさにそのとおりであろう。しかし、同人らの捜査の端緒に関する証言が揺れ動き、しかも客観的証拠に支えられていないこと、本件に関する朝霞署の捜査の経過には、不審な点が余りにも多すぎること、朝霞署と田園調布署との間で何らかの情報交換があったのではないかとの疑いを払拭し難いことなど、これまで詳細に指摘してきた事実関係を踏まえて考察すると、右の点につき、検察官がいう程明確に消極の結論に達することは困難であると思われる(朝霞署が、田園調布署から、「最近二度も被告人の身辺を捜査し、一回は身柄を拘束したが、その都度弁解を崩すことができず、結局、起訴に至らなかった。」との事実を知らされていたとすれば、今回の自署での捜査によっては、何としてでも被告人を起訴・実刑に追い込みたいという気になることは、十分に考えられることというべきである。)。

3 朝霞署の警察官が、被告人を逮捕したのち、被告人から無断で預かった電子手帳の中から覚せい剤を発見したとして被告人にその任意提出を迫った事実を捉えて、被告人は、「その包みに触れなかったため、私の指紋は検出されなかったが、その時触っていた場合はどうなっていたか考えさせられてしまう。」旨供述し(最終陳述書)、右電子手帳の無断保管に始まる一連の手続も、朝霞書捜査員による証拠のねつ造を狙ったものではないかとの強い疑問を提起しているが、本件一連の捜査手続をめぐる朝霞署警察官の不審な言動からすると、被告人の提起した右の疑問も、これを単なる思い過ごしであるとして一蹴し去るのは躊躇されるのであり、右の一事からしても、朝霞署員に、尿のすり替えを企図するような動機が存在しなかったという検察官の主張は、十分の説得力を有するものではないことがわかる。

五 尿すり替えの可能性についての結論

以上の検討の結果明らかにされた次の諸点、すなわち、(1)被告人が朝霞署で提出した尿が、一旦別室へ運び去られ、一〇分ないし一五分間、被告人の視界から消えた時期があったと認められること、(2)正常な捜査の遂行過程においては、警察官には、尿を別室に運び出す必要性は全くなく、むしろ、このような行為は、厳に戒められている筈であること、(3)警察官らは、公判廷において、「被告人の尿を別室に運び出した事実はない。」旨、事実に反する疑いの強い証言をしていること、(4)朝霞署においては、被告人の尿とすり替えるべき他の覚せい剤取締法違反の被疑者の尿を入手することが不可能であったとは認められないこと、(5)警察官に、右尿のすり替えをしてでも被告人を有罪に追い込みたいと考える動機がなかったとは考えられないことなどを総合して検討すると、本件については、朝霞署の警察官により、被告人の尿が他の覚せい剤被疑者の尿とすり替えられたのではないかという疑いを到底払拭することができないというべきである。

第九  自白調書の任意性・信用性について

一  緒節――自白調書等の概要

1 前章までの検討により、検察官の重視する尿鑑定書等の積極証拠の証拠価値に重大な疑問の存することが明らかとなったが、本件においては、極めて簡単なものながら、①被告人の自白調書(員面)及び②自認を内容とする弁解録取書、③被告人が左手の指で右腕関節を指示している写真二枚、④不利益事実の承認を内容とする被告人の検面、更には、⑤不利益事実を承認した趣旨にとれないではない被告人作成のS刑事宛ての伝言メモ(司法警察員M作成の「覚せい剤取締法違反被疑者乙作成のメモ書について」と題する書面<甲一七号>添付のもの)などが存在する。そして、当裁判所は、弁護人が取調べに異議を述べず、又は取調べに同意した右③⑤については、いずれも直ちにその取調べを行ったが(ただし、③については、「被告人の注射痕の状況」という立証趣旨による。)、弁護人がその任意性を争った①②④については、その作成経過等について詳細な証拠調べを行ったのち、第一四回公判において、「任意性に関する最終的判断は、判決中で示す」という留保付きで、一応任意性ありと認めて証拠決定の上、これを取り調べた。

2 当裁判所が、証拠決定の段階で右①②④の各書証の任意性に関する最終判断を留保したのは、右各書証の任意性の判断には、本件の最大の争点である警察官による尿のすり替えの疑惑の有無・程度が、重大かつ密接な関連を有すると認められるが、この点については、更に詳細な証拠調べを遂げた上、当事者双方の証拠評価に関する意見(論告・弁論)をも徴した末に慎重に決する必要があり、事柄の性質上、審理の中途で行う中間決定(証拠決定)でこの点についての裁判所の最終的見解を示してしまうのは、適当ではないと考えたからである。

3 そこで、以下、警察官による尿のすり替えの疑惑は、これを到底否定し難いとの前提に基づき、右①②④の各書証の証拠能力(任意性)について検討し、その上で更に、③⑤を含め、その信用性を検討することとする。

4 初めに、前掲①ないし⑤の内容を、もう一度指摘しておくと、次のとおりである。

① 逮捕当夜、M刑事により作成された自白調書

右は、「今朝午前二時過ぎころ、都内豊島区内の通称環状六号線から奥に入った公園で、人から借り受けた注射器を利用して覚せい剤を水に溶かして私自身で右腕に射ったことは事実です。」という、わずか一〇行の簡単なものである。

② 当夜、O刑事によって作成された弁解録取書(以下、「弁録」という。)

右は、「私が覚せい剤を射ったことは事実ですので、弁解することは何もありません。」といういっそう簡略なものである。

③ 当夜、N刑事によって撮影された被告人の写真二枚(以下、「N写真」という。)

これは、本来、注射痕の写真として提出されたものであるが、前記第六、五記載のとおり、右写真のみによっては、注射痕を確認することができない。しかし、右写真には、被告人が、自己の左手の人差し指で右腕関節部内側を指示している状況が撮影されており、これを捉えて検察官は、被告人が、素直に右のようなポーズをとって写真撮影に応じたということは、当時、その指示する部位に注射痕が存在した証左であると主張している。そして、もし、被告人が、注射痕を指示するよう言われて右のポーズをとったのであるとすると、右写真に撮影された状況は、被告人の動作による不利益事実の承認であると考えられないことはないので、右は、自白と性質を同じくする証拠であると認められる。

④ 被告人の検察官に対する平成二年一月一三日付供述調書(以下、「1.13検面」という。)

右は、覚せい剤自己使用は身に覚えがないとする否認調書であるが、その中には、一月一一日午前二時すぎころ、公園内で覚せい剤の売人と接触したことがあり、「右腕の注射痕は、その男と接触した時、注射器に覚せい剤を溶いた液を入れ、腕にさしたが、すぐに引き抜いて液は捨ててしまった。」という記載があり、右は、公判廷における供述と比べても、更に際どい不利益事実の承認を内容とするものである。

⑤ 被告人がS刑事に宛てて作成した伝言メモ

右は、被告人が、逮捕当夜の取調べ終了後、田園調布署のS刑事と連絡を取りたいと申し出て、B四版の紙約一頁にボールペンで書き殴った伝言メモであるが、その中には、「今回バカなまねをしてしまい、…ひきつづきやりたくて買い求めたものではなく、話を聞きまわるためのこと、…このようなことをするつもりは、決してありませんでした。」などという、読み方によっては犯行を認める趣旨にとれないではない記載部分がある。

5 そして、検察官は、右自白調書等を、有罪立証を補完する証拠として重視しているので、以下、これらの証拠の作成経過を認定した上、その証拠能力及び証拠価値について検討する。

二  自白調書等の作成の経過について

1 右一に指摘したとおり、本件における自白調書等は、その内容が極めて簡単であるとか、必ずしも明確な内容のものではないなどの特徴を有し、証拠能力の点をひとまず措いて、その内容自体から考えても、これが高度の証明力を有するものとは即断し難いが、右自白調書等の証拠能力及び証拠価値を的確に評価する上では、いずれにしても、その作成経過が重要な意味を持つと考えられるので、まず、この点を検討する。

2 自白調書の作成経過に関する被告人の供述とMらの証言は、必ずしも一致していないが、前記留置人一覧表を含む関係証拠によると、少なくとも次の事実は、極めて明らかなところと認められる。

3 すなわち、被告人は、自宅の捜索を受けた際提出した尿につき、異物の混入を疑われ、警察に行って婦警立会いのもとに尿を取ることを了承した上、警察官らに同道して警察車両で朝霞署へ赴き、一月一一日午後九時前後ころ同署に到着した。その後、同日午後九時半ころ、R婦警立会いのもとに尿を採取して提出した被告人は、引き続き同署補導室でM刑事の取調べを受けることになったが、自己が提出したとされる尿(なお、この尿は、他の覚せい剤被疑者の尿とすり替えられた疑いを到底払拭し得ないものである。)が予試験の結果陽性と判定され、右結果を突きつけられて追及されることとなり、結局、同日午後九時五二分ころ、覚せい剤自己使用の嫌疑で緊急逮捕された上、翌一二日午前一時四〇分ころ同署の留置場に入房させられるまでの間に、身上・経歴に関する供述調書(実質四枚)のほか、前記一1①の自白調書及び同②の弁録にいずれも署名・指印した。また、被告人は、その後、自ら希望して、前記一1⑤のS刑事宛ての伝言メモ及び実母(K)宛てのメモを作成・提出した。なお、被告人は、その間いずれかの時点において、N刑事により、前記一1③の右腕の写真を撮影されている。被告人は、その二日後(一月一三日)に検察官の取調べを受けた際には、朝霞署での採尿の際、採尿容器が一〇分か二〇分間、自分の目の届かないところに置かれ、その間に工作された疑いがあるなど、公判廷における弁解と同旨の弁解をしたが、他方、事実関係については、前記一4④のとおり、公判廷における供述よりも更に際どい不利益事実の承認を内容とする検察官調書に署名・指印した。その後、被告人に対する取調べは、一月一八日以降本格化し、連日のように行われたが、被告人は、一貫して事実を否認した。以上のとおりである。

4 ところで、被告人が一月一一日夜、自白調書に署名・指印するに至った経緯及び写真撮影の際前記のようなポーズをとった理由につき、被告人は、次のように供述している。すなわち、被告人によると、「朝霞署に着いたのち、身上・経歴に関する供述調書を作成している途中に、R婦警らと便所へ行って採尿し、補導室で経歴書を書き終えてから、予試験をした。予試験の結果、陽性であると言われて、どうしてか信じられず、『どうして出るんでしょうか。』と言ったが、気が動転して何が何だかわからなくなり、『処理できなければ次が進まない。』と言われ、言われるまま、採尿容器に封印してしまった。その後、事実関係に関する供述調書(自白調書)及び弁録の順序で書面を作成され、自分は、注射をするまねをしただけで射ってはいないと述べたが、聞く耳を持たぬという態度で聞いてもらえず、弁録と自白調書を作成されてしまい、三通一括して署名・指印を求められた。私は、調書の内容が違うので、一時間以上抵抗して署名しなかったが、時間が経つにつれ、M刑事から『お前はいいかもしれないが、他の人(R婦警)のことを考えてみろ。あしたも早い勤務なんだ、要するに、お前が認めなければ帰れないでずっといなくちゃならない。』と繰り返し言われているうちに、自分も仕事で遅くなったときには、早くお客様が帰ってくれるといいなという感覚を持つので、私がこういう状態を続けていると、R婦警さんが帰れないでいるのかなという心境になり、書面に署名・指印してしまった。」「写真を撮影する際、これは注射痕ですというようなことは言っておらず、指差しているのは、写すとき『指を差すように。』『腕のところに指を添えるように。』と言われて、そのとおりにしただけである。」「入房が遅くなったのは、私が調書への署名・指印に抵抗したからで、最後に房に入る段になって入るのを嫌がったということはない。」というのである。

5 これに対し、取調べに当たったM刑事は、次のように証言する。すなわち、「被告人から尿の提出を受けたのち、九時五〇分近いころ、補導室にいる被告人の面前で予試験をした結果、陽性になったので、Qが『どうしたんだ。』と問い直すと、被告人は、すぐ、『今朝方、板橋か練馬かわからない、丁度境付近の公園の所で、覚せい剤を打ってもらった。』と説明した。九時五二分に緊急逮捕し、O警部補が弁録を取り、一〇時近くから、私が取調べを始めた。それまで、身上関係についても全く調べていなかった。最初、身上関係について被告人に聞きながら三〇分位でメモをつくり、合計一時間位で調書を書き上げた。途中、被告人の母親から電話がかかってきて、五、六分会話している。事実関係については一一時ころから取調べを始め、一〇分位で書き上げたが、身上関係の調書と一括して被告人に署名指印を求めたところ、被告人は、身上関係については即署名押印をしたが、事実関係については、『この事件については田園調布の刑事さんに調べてほしい。』と要望して、すぐには署名押印しなかった。しかし、今回の事件は、警視庁の事件じゃないので、埼玉で調べると説明して説得したところ、五、六分で納得して、一一時三〇分ころ署名指印した。その後、被告人から実母とS刑事への伝言メモを書きたいと言われたので、紙を渡し、被告人は、一時間くらいかかって、メモ二枚を書いた。留置場に入る前に、被告人が『入りたくない。』と言い出したので、『時間的にも遅いし、婦警の立会いもあるので、入ってほしい。』と説得して、午前一時四〇分ころ入ってもらった。」以上のとおりである(記録三九一丁ないし四〇二丁)。

6 次に、Q刑事の証言は、「採尿後、補導室で予試験をしたところ陽性反応を示したので、『事実はどうなんだ。』と聞くと、しばらく(二、三十秒)黙っていたが、『今朝二時ごろ、豊島区か板橋区の公園の近くの車の中で、人にネタを一発もらって注射した。』と言って右腕を見せた。九時五二分ころ被告人を逮捕したが、被告人は、『私がばかだったんです。』と言っていた。自分は、一〇時半ころ帰った。」というもので(記録一六丁ないし二一丁)、同人が帰宅する以前の状況に関する証言は、M証言とほぼ同旨である。

7 更に、注射痕の写真を撮影したN巡査は、「予試験の反応が出たあと、最初は一分位沈黙だったが、そのあと、『自分で打った。』というようなことを言い、打った場所を指示したので確認し、それに基づいて写真を撮った。」旨証言している(記録一五一丁、一五二丁)。

8 これによると、Mら警察官の証言は、予試験のあと、被告人が間もなく自己使用の事実を認め、写真撮影に際しても、注射痕の存在を認めてこれを指示したなどという点で一致しているが、他方、Mも、事実関係に関する調書の作成後、被告人が一旦署名・指印を拒否した事実は、これを一応認めている(ただし、その時間は、被告人のいう「一時間以上」ではなく、「五、六分」であるという。)。なお、被告人とMらの供述の間には、①採尿前に、既に身上関係の調書の作成が開始されていたかどうか、②事実関係の調書への署名を説得するために、Mが被告人に言った言葉の内容、③被告人が入房を嫌がったかどうかなどの点で、顕著に対立している。

9 被告人とMらの供述の対立点につき、両供述の信用性を検討するのに、確かに、Mらの証言は、複数の警察官のほぼ一致した証言であるから、本来であれば、これに、被告人一人の供述を圧倒するような高度の証拠価値を認めて然るべきであると思われるが、本件においては、にわかにそのように断じ難い事情があるというべきである。その理由は、次のとおりである。

10 まず、本件における警察官らの行動等の中には、前記第六ないし第八において詳細に指摘したとおり、その証言の信用性を疑わせる方向で働く多くの不審点が存するのであり、右不審点は、被告人の自白に至る経過に関するMらの証言の信用性の評価においても、考慮しないわけにはいかない。

11 次に、この点に関するMらの証言自体の中にも、その信用性に疑問を抱かせるいくつかの問題点がある。例えば、Mは、自白調書作成後被告人が署名・指印を拒否していたのは「五、六分」にすぎないというのであるが、同証言によると、被告人が自白調書に署名したのは「午後一一時二〇分ころ」で、その後、二枚のメモを書き上げるのに約一時間かかったとされているのであるから、これらの点に関する経過が同証言のとおりであったとしても、被告人がメモを書き上げてから、現実に入房した時刻(午前一時四〇分)までには、一時間二〇分もの長い時間的間隔があったことになる。同人は、被告人が入房の段になってこれを嫌がったという理由で、右の空白を埋めようとするのであるが、常識的に考えると、既に自白調書に署名・指印をしてしまった被疑者が、入房の段階になって急にこれを嫌がり出すというのはいささか理解し難い行動というべきである。特に、被告人は、右の時点では、既に自白調書に署名・指印していただけでなく、実母とS刑事に宛てて、かなり詳細な伝言メモを書き上げていたのであるが、右実母宛てのメモに、自己の不在中の家事の始末の仕方について事細かな指示が記載されていることからみると、遅くとも右メモを書いた時点では、被告人は、当夜帰宅できないことを覚悟していたと認めるのが常識に合致する。そうすると、そのような被告人が、その後一時間以上にもわたって、入房を拒否して係官を手こずらせる行動に出たというのは、いかにも不自然であるといわなければならず、M証言は、右の点において、根本的な疑問を免れない。他方、同人は、被告人に対し、R婦警が残っていてかわいそうじゃないか。」との言葉(これは、被告人が、Mから自白調書への署名を迫られた際にいわれたというのと同一内容のものである。)を、被告人に対して言ったことを認めながら、右は、被告人が留置場に入りたくないと言ったので、これを説得するための言である旨言い張るのであるが(記録四二二丁)、既に検討したとおり、入房の段階で被告人が突然入房を嫌がり出すということが考え難い以上、Mが発したことを認める右の言葉は、被告人に対し自白調書への署名・指印を迫る際のものであったと考えるのが常識に合致する。右の点のほか、M証言は、被告人が、池袋で男に覚せい剤を「打ってもらった。」と言ったのか、「自分で打った。」と言ったのかというような点についてすら、重大な変遷があり、右証言の変遷を指摘されるや、明らかに一貫しないその場限りの弁解で言い逃れようとしているなど(記録四一九丁ないし四二一丁)、その信用性を疑わせる重大な事由が認められる。このように、自白調書の作成経過に関するM証言は、全体として信用性に乏しく、被告人の前記4の供述を排斥するに足りるだけの証拠価値を有するとは認められない。

12 そして、このことを前提として考察すると、QやNの各証言も、これを額面どおり受け取ってよいかは甚だ疑問であるといわざるを得ない。他方、被告人の前記4の供述は、その内容が詳細かつ具体的であるばかりでなく、証拠上明らかな前記2認定の事実関係に照らし不合理な点が見当たらないから、自白調書の作成経過やポラロイド写真撮影の経過等については、被告人の供述のとおりであった疑いを払拭することができず、右供述を前提としてその証拠能力や証拠価値を判断するほかはない。

三  自白調書等の任意性について

1  前節で検討した一月一一日当夜の自白調書等作成の経緯を要約してみると、次のとおりである。すなわち、被告人は、平成二年一月一一日夕刻自宅の捜索を受けたのち、朝霞署へ任意同行を求められて午後九時前後ころ同署へ出頭し、婦警立会いのもとに便所で採取した尿を警察官に提出したところ、警察官は、被告人から提出を受けたという尿につき被告人の面前で予試験を行い、その陽性の結果を突きつけて自白を迫ったが、右予試験に供された尿は、一旦別室で他の覚せい剤被疑者の尿とすり替えたものではないかという疑いを到底払拭することができないものである。そして、被告人の当夜の自白調書及び弁録は、右予試験の結果に驚き気が動転している被告人に対し、その弁解に「聞く耳持たぬ」という強い態度で迫った警察官によって作成されたものであり、被告人は、その内容が事実と違うとして、一時間以上にもわたって署名・指印を拒否したが、署名・指印を拒否していると、立会いの婦警がいつまでも帰れないと指摘され、やむなく、翌一二日午前一時近くになって、これに署名・指印した。N写真は、尿の予試験のあと、自白と相前後して、警察官からポーズを指示された被告人が、言われるまま右腕関節部を指しているところを撮影されたものである。以上のとおりである。

2  そこで、以下、右認定を前提として、右自白調書等の証拠能力を考えてみるに、警察官が、被疑者(被告人)から提出を受けた尿を他の覚せい剤被疑者の尿とすり替えた上、これで予試験を行って自白を迫るというのは、明らかに、許される筈のない偽計による取調べというべきであるから、本件における被告人の自白調書及び弁録は、かかる偽計を用いた取調べによって得られた自白を内容とするとの疑いを到底払拭し難いものである。そして、警察官らが自白を迫る際及び自白調書等への署名・指印を迫る際に発した前記言動をも併せ考えると、右自白調書及び弁録は、その任意性に重大な疑いのあるものといわなければならない。

3 次に、N写真は、必ずしも被告人が注射痕の存在を自認した状況を撮影したものとは認められないが、かりに、それがそのような意味を有するものと認め得るとしても、任意性に疑いのある自白調書の作成と相前後して、被告人が、警察官の指示によりポーズをとらされた上で、その動作を撮影されたものであるから、やはりその任意性には疑いがあるというべきである(なお、同写真については、弁護人がその取調べに異議を述べていないが、右は、検察官の右写真に関する立証趣旨が「注射痕の状況」であったことによると考えられる。従って、検察官が論告中において指摘するように、右写真に写された被告人の動作を不利益事実の承認として主張するのであれば、そのことを前提として、弁護人の意見にかかわりなく、右動作による供述の任意性の有無が判断されて然るべきである。)。

4 更に、1・13検面について検討するのに、一般に、被疑者の警察官に対する供述調書の任意性に疑いがあるときは、検察官において、被疑者に対する警察官の取調べの影響を遮断するための措置を講じた等特段の事情が認められない限り、その後に作成された検察官に対する供述調書(自白又は不利益事実の承認を内容とするもの)についても、原則として、任意性に疑いが残るというべきである。そして、本件において、一月一三日に被告人を取り調べた検察官が、一月一一日の取調べにおける警察官の違法・不当な言動を知って、その影響を遮断すべく特段の措置を講じた形跡は全くこれを窺うことができないので、右検面中、不利益事実の承認を内容とする部分については、右に述べた意味において、任意性に疑いが残るといわなければならない。もっとも、右検面作成の前日、被告人は、接見に来た弁護人(相原英俊弁護人)に対し、尿のすり替えに通ずる疑惑を訴え、同弁護人から、検事調べの際、そのことを申し出るよう助言を受けており(記録六八二丁裏、六八三丁)、現実にも、検察官の面前では、警察で尿に細工された疑いがあると訴えるとともに、覚せい剤を自己使用した事実はない旨否認供述をするに至っているのであって、このことからすると、右取調べの段階において、被告人は、既に警察官による違法・不当な取調べの影響から解放されていたのではないかと考えられないでもない。しかし、右取調べに先行する警察官の違法行為は、前記のような重大なものであった疑いを到底払拭できないのであって、このことからすると、被告人が、弁護人により前記の程度の助言を受けていたというだけでは、一月一三日の取調べの段階において、警察官の違法行為の影響から完全に解放されていたと認めるのは、早計である。本件において、検察官は、被告人から警察官の重大な違法行為の疑いを現に訴えられたのであるから、当然、右供述を手がかりに事実関係を調査するとともに、万一の誤りなきを期するため、被告人が強く希望する尿の再採取を自ら行うか警察官に命ずるかして、再鑑定の資料を保全しておくべきであったというべきであるが、被告人の取調べに当たった検察官は、検面にこの点に関する被告人の訴えを記載しただけで、具体的には、何らの措置を講じなかったと認められるのであって、このような態度の検察官により作成された検面の任意性を肯定するのは困難である(もっとも、逮捕の翌日に弁護人として選任された前記相原弁護士が、接見の際被告人から、警察官による尿すり替えに通ずる疑惑を訴えられながら、被告人に対し前記の程度の助言を与えただけで、自ら警察官や検察官に対し、直ちに尿の再検査を求める等、臨機適切な弁護活動を展開することなく終わったのは、残念なことであったといわなければならない。)。

四  自白調書等の信用性について

1 前記三1認定の経過により作成された①自白調書、②弁録、③N写真及び④1・13検面については、その任意性に疑いがあり、その信用性を検討するまでもない筈であるが、本件では、更に、任意性を否定されない⑤伝言メモが存在し、その証拠価値を検討する必要があるので、以下、①ないし④をも含め、一括してその証拠価値を検討しておくこととする。

2 まず、前記三1認定の経過のもとに作成された極めて簡単な自白調書及び弁録には、その作成経過自体に照らし、信用性に疑いを生ずるというべきである。また、N写真にも、自白を離れた独立の証拠価値があるとは認められない。

3 次に、1・13検面について検討する。右は、前記のとおり、全体としては強い調子の否認調書であり、その中には、被告人の公判廷における弁解と同旨の弁解(尿が一時視界から消えたので、警察官に作為された可能性があるというもの)も記載されてはいるが、これに続けて、前記一4④のとおり、公園内で、覚せい剤の売人と接触し、「注射器を腕に刺したが、すぐ引き抜いて液は捨ててしまった。」旨、その後の公判廷における弁解よりも更に際どい不利益事実の承認の記載があるので、問題である。特に、被告人は、前記のとおり、逮捕の翌日(一月一二日)に早速、相原弁護人と接見し、その際、同弁護人に、「封印されないままの容器がどこかに持ち去られたので、尿検査をもう一度やり直して欲しいのだ。」ということを訴え、同弁護人から、近近新件で検察庁に行くんだから検事さんに話した方がいいという助言を受けて、翌日、検察官に右弁解をしたという経緯があることを重視すると、そのような経緯で臨んだ検察官の取調べにおいて、前記のような不利益事実を承認したということは、心証形成上被告人に著しく不利益に働く事実であるという見方を生じ易い。しかし、前記のとおり、右検面作成の時点において、被告人は、未だ、警察官による違法・不当な取調べの影響から完全に解放されていたとは認められないのである。そして、検察官が、被告人から警察における尿への作為という重大な疑惑を訴えられ、しかも、右時点では、時間的に、尿の再鑑定ということが優に可能であったと認められるのに、被告人の右疑惑に関する主張を検面に録取しただけで、警察に尿の再鑑定を命じたり、自ら部下に命じてこれを実施させた形跡が全く窺われないことからすると、検察官が、被告人の弁解に真摯に耳を傾けるという態度で取調べに臨んだものとは到底認められず、むしろ、被告人の右弁解を一笑に付し、これに一顧も与えなかった疑いが強い。このような取調官によって作成された検面中の一部に、不利益事実の承認にあたる記載があるからといって、これを心証形成上重視するのは、到底正しい採証の態度とはいえないと思われる。

五  S刑事への伝言メモについて

1 最後に、S刑事に宛てた伝言メモ(前記一1⑤記載のもの)の証拠価値について検討する。右メモは、被告人が自ら希望して積極的に記載したものであるから、これには自白調書や弁録の場合のような、その作成経過からみた証拠評価上の問題点はない。そして、右メモに、読み方によっては犯行を認める趣旨にとれないではない記載があることは、前記のとおりである。

2 右メモのうち、特に問題になり得ると思われるところを拾ってみると、①「昨日、私のまちがった考え、判断にて、このような行動をとってしまいました。」とある部分、②「今回バカなまねをしてしまい、結果をくやんでも始まりませんが」とある部分、③「ひきつづきやりたくて買い求めたのではなく、話をききまわるためのこと」とある部分、④「法とはちがい、母に対しての子供からの言い訳にはなるのですが」とある部分などである。しかし、右のうち、①②の点は、被告人が公判廷において弁疎するように、覚せい剤の売人と接触して、覚せい剤の水溶液を自己の腕部に打つまねをしただけであったとしても、そのような大胆不敵な行動によって疑いを招き窮地に陥ったのが事実であるとすれば、自己の行動を後悔して右のような心境を吐露することは十分あり得ることと思われる。④の点は、やや微妙であるが、趣旨いささか不明瞭で、これを自ら法を破ったことを認めた趣旨であると断ずるのは躊躇される。

3 最も問題となると思われるのは③の点であろう。右文章を文法に従って解釈すれば、「買い求めたのは事実だが、ひきつづきやりたくて買ったのではない。」という意味になるので、検察官は、これを被告人が覚せい剤を買い求めたことを自認した趣旨であるとして重視している。これに対し、被告人は、覚せい剤を買ったこと自体を否定した趣旨であると弁疎しているところ(記録三五九丁)、右弁疎は、確かに文法的にはやや筋が通らないが、右メモは、被告人が、混乱し動転した心理状態のもとで、短時間内に必死に書き殴ったものであることが、その記載の体裁や文面上からも明らかであり、そのような状態で被告人が書き殴った文章には、「文法的に必ず正確である」という保証はない。現に、右メモ記載の文章は、随所で文法を無視した断片的なもので、全体として、支離滅裂に近いものである。このような文章全体の中で前記③の部分をみると、これを被告人が公判廷において弁疎するような意味で書いたものと解釈する余地は十分にあるというべきであろう。従って、右の点を、被告人が覚せい剤を買い受けたり注射したりしたことを自認する趣旨のものであると決めつける検察官の論理に、賛同するわけにはいかない。

4 なお、検察官は、右メモに、自分が潔白であるという趣旨の明白な記載がないとも指摘するが、被告人は、右メモを作成する直前に、一時間以上の抵抗空しく、警察官により、自白調書に署名・指印させられてしまっていたのであり、このような被告人が、その同じ警察官に託す伝言メモに、既にした自白と明白に抵触する記載をすることは、事実上困難なことであったと思われる。従って、右の点も、本件の心証形成上さしたる意味を持つものではないというべきである。

5 被告人は、右メモ作成の動機につき、「S刑事と話がしたいと思ったところ、だめだよと言われたので、…私としたら、S刑事さんだったら、どうして私がそういう行動に出たのか分かってもらえると思った。」とか、「その紙に書いてあることを言っていただければ、Sさんは分かっていただける部分があるんじゃないかと思った。」などと供述しているが(記録三六六丁)、右供述を前提としてメモの文面を改めて読み直してみると、その中から、不本意にも突然窮地に陥ってしまった自己の立場を、かねて接触のあったS刑事に訴えて、その助力により窮地を脱出させて欲しいという被告人の必死の叫びを読み取ることも困難ではない。従って、右メモの存在は、被告人が公判廷において極力訴えるS刑事との特殊な関係を強く推認させるという意味で、むしろ、心証形成上被告人に有利に働く側面をも有するものであるというべきであろう。

六  被告人の公判供述の矛盾・変遷について

1 最後に、検察官が論告において強調する被告人の公判供述の矛盾・変遷について検討する。検察官の指摘する被告人の公判供述の問題点は、①被告人が、当初当公判廷において、「昭和六三年に前刑の執行猶予の判決を受けたのちは、覚せい剤を使用したことは一度もなかった。」旨繰り返し供述していたのに、第二〇回公判においては、「平成元年九月三〇日ころ、Uから覚せい剤を譲り受けて注射したことがある。」旨供述を変更したこと、②被告人は、当公判廷において、これまで自己の右腕に覚せい剤を注射したことは一度もなかった旨供述してきたが、のちに取り調べた被告人の平成元年一一月二日付員面(抄本)には、被告人が、覚せい剤水溶液を右腕に注射したことがある旨を認めた記載があること、及び③被告人の公判廷における否認の内容が、否認調書である1・13検面の記載ともくいちがっていることである。

2 被告人の公判廷における供述の変遷や、過去の供述調書との矛盾などが、被告人の公判供述全般の信用性を低下させる一つの事情であることは、これを否定することができないであろう。特に、右①の点のように、被告人が、これまで一貫して、繰り返し主張してきた弁解の一部を、被告人自身が虚偽であったと認めたことは、被告人の弁解中それ以外の点についても虚偽が含まれているのではないかという疑いに結びつき易い事情と思われる。

3 しかし、被告人は、最終陳述において、右①の点に関する供述変更の理由につついて、「以前、Uから一度譲り受けて使用したと本当のことを言えば、本件についても、そのような目で見られるのではないかと思って、偽証してしまったが、この一つのウソをついていることによって、他のことも全てウソをついていると思われてしまう、やはり本当のことを言わなければいけない、という気持ちがふくらんできた。それは、警察官の、事実とは違う証言を聞いて、特にそう思った。」旨説明している。右説明のうち、本件につき不利な認定を受けることを怖れて、過去の行動を一部隠そうと思ったということは、身に覚えのない犯罪の嫌疑を受けて窮地に立たされたという被告人の立場として、理解のできる心理であり、また、保釈中の再犯という、弁解の仕様のない愚行を重ねてしまったのち、被告人が、思い切って右の点につき真相を吐露する気になったというのも、不自然な供述ではない。被告人・被疑者は、いろいろな思惑から虚偽の弁解をすることがあるが、その一部が虚偽であることが判明したからといって、たやすく、その全部が虚偽であると断ずるときは、事実の認定を誤るおそれなしとしないとされている。右供述の変更は、むしろ、被告人が、他から新たな決定的証拠を突きつけられたわけでもないのに、自らの意思により従前の虚偽供述を改めたものとして、その供述の真摯性を裏付けるものというべきであり、少なくともM刑事のように、その証言が前後矛盾し、明らかに不合理なものになっているのに、容易にその誤りを認めようとしない証人と比較すれば、その供述の信用性が高いと考えてよいと思われる。

4 次に、被告人は、前記②の点につき、公判廷では、平成元年一一月の取調べの時点で、そのような供述をしたかどうか記憶がない旨供述している。確かに、右取調べの時点で、被告人は、身柄を拘束されていたわけではなく、調書の読み聞けもされているというのであるから(記録七二八丁)、右調書に右腕に打った旨の記載があるということは、被告人がそのように供述した事実、ひいては、(公判廷での供述に反し、)被告人が、過去において、覚せい剤を右腕に注射したことがある事実を相当程度推認させるものといわなければならない。しかし、右調書は、あくまで供述録取書であって、その録取の正確性には限界がある上、右供述は、注射痕の存在等客観的証拠によって裏付けられたものではないこと、被告人が、元来右利きで、これまで覚せい剤の注射を左腕にしてきたという供述自体は、前刑の事件の判決書及び判示第一の事実に関する注射痕の写真などにより客観的に裏付けられているので、かりに、前記供述調書の記載が真実であったとしても、被告人の公判廷における供述が根底から崩れるということにはならないこと、被告人が、これまでに覚せい剤を右腕に注射したことがあるという事実自体は、「これまでに、右腕には注射したことがない。」という被告人の公判廷における供述を弾劾するに止まり、そのことから、端的に、「今回被告人が右腕に覚せい剤を注射した」という事実を推認させるものではないのはもちろん、右要証事実の立証上さしたる意味を有するものではないと考えられることなどの諸点に照らすと、本件における心証形成上、前記供述調書の存在の果たす役割は、おのずから限度があるというべきである。

5 更に、前記③の点については、犯行を否認する被告人の供述内容が、検面の段階と公判廷とでくいちがっていることは、公判廷における供述の信用性を若干低下させる事由ではあるが、いずれにしても、両者は犯行を否認する点では共通しているのであり、これにより、有罪立証がなにがしか補完されるという性質のものではない。

6 以上、これを要するに、被告人の供述にみられる矛盾・変遷は、確かにその公判廷における供述の信用性をいささか低下させるものではあるが、それ以上のものではなく、これによって、既に詳細に検討したような積極証拠に存する欠陥を補完し得るものではないというべきである。

第一〇  総括

1 これまでの検討の結果により明らかなとおり、本件においては、有罪立証の中心となるべき尿鑑定書の証拠価値に前記のような重大な疑問があり、これを突きつけて作成された自白調書及び弁録の証拠能力・証明力には、やはり疑いが残るのみならず、他に有罪立証を補完する的確な証拠は見当たらないので、これらの証拠によって、被告人を有罪と認めることはできないというべきである。以下、若干の補説をして、本件の総括としたい。

2 本件は、極めて単純な覚せい剤自己使用の事案であるが、審理の結果明らかにされたその捜査の経緯は、まことに奇怪であるといわなければならない。

3 被告人・弁護人が、公判の冒頭において、公訴事実を強く否認し、平成二年四月二五日付証拠開示申立書や、同年五月二二日付同補充書において、警察官による尿への作為の可能性を示唆した上、電子手帳の無断保管やその中から覚せい剤が発見された経緯、更には、被告人が朝霞署の捜査を受けるに至るまでの特異な事実経過(それは、その後の弁護人の主張と全く同一である。)を詳細に指摘したとき、当裁判所は、その主張の意外性に驚くとともに、そのようなことが、現実に捜査官によって行われているとは、にわかに信じ難いとの思いを禁じ得なかったものである。

4 ところが、右弁護人の主張は、その後の審理の結果により、その殆ど全部が事実であることが確認されたか、少なくとも、その主張する事実が存在したのではないかという強い疑いを生ずる程度に立証され、被告人の供述と対立する警察官らの証言には、次次と矛盾や疑問が生ずるに至ったのである。

5 そして、当裁判所が最終的に認定したところによると、本件については、被告人が提出した尿が、警察官により、他の覚せい剤被疑者の尿とすり替えられたのではないかという疑惑が到底否定できないところとなり、その後、被告人に無断で保管した電子手帳中から覚せい剤が発見された経緯や、これをめぐる処分の不可思議な結果も、右尿のすり替えと同一の目的によるものではないかとか、更には、朝霞署は、一月一一日に被告人と接触した覚せい剤の売人や田園調布署のS刑事とまで、事前の連携を保ちつつ、右同日被告人方を捜索し、口実を構えて署への同行に応じざるを得ない状況を作出しようとしたのではないかなどという疑惑まで生ずるに至っている。

6 このような疑惑は、確かに疑惑の域を出ず、取り調べた全証拠によっても、間違いなくそのとおりであったと断定するには至らない。しかし、それは、単なる抽象的な可能性ではなく、かなりの程度、具体的事実に裏付けられた重大な疑惑であって、「そのような事実はない。」という警察官らの型どおりの証言によって、簡単に拭い去り得る性質のものではない。犯罪捜査のプロである警察官の捜査に関し、このように権力犯罪の疑いにも連なる重大な疑惑が生じたことは、まことに遺憾であるといわなければならない。

7 もちろん、本件において、当初起訴された事実を強く否認していた被告人が、ようやくにして許された保釈中に、判示第一、第二の再犯に及んだという事実は、十分責められて然るべきであり、右事実について、被告人は、その刑責を厳しく追及されなければならない。しかし、繰り返していうが、被告人が保釈中に再犯に及んだという事実自体は、本起訴事実について被告人が有罪であるか否かの判断に直接影響を及ぼすべき性質のものではなく、もとより、そのことによって、本起訴事実の捜査に関する警察官の違法と疑われる行為が不問に付されるべきであるということにはならない。当裁判所は、追起訴事実に相当する判示第一、第二の各事実について、被告人は、もとより相当期間の懲役刑の実刑を免れないものと考えるものであるが、それとは別に、本起訴事実に関する違法捜査と疑われる行為は、これを明確に指摘し、かかる捜査によって収集された、証拠価値又は証拠能力に疑いのある証拠によっては、被告人を有罪と認めることができないことを確認した上で、右事実につき被告人の無罪を宣明するとともに、関係機関の猛省を促すことこそ、裁判所の責務であると考えるものである。

第一一  結論

以上詳細に説示したとおり、平成二年二月一日付起訴状記載の公訴事実については、犯罪の証明がないから、刑訴法三三六条により、右事実につき被告人に対し無罪の言渡しをすることとする。

よって、主文とおり判決する。

(裁判官木谷明)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例